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恐縮ですが、生長の家なるものは

1 :名無しさん@1周年:02/09/05 18:19
どのような団体なのでしょうか?
サイトを拝見しましたが理解には至りませんでした。
信仰の是非ではなく、どのような団体なのか
ご存じの方がおみえになりましたら宜しくお願いします。

498 :名無しさん@3周年:03/12/29 08:28
本来 神なんていないんだが、他の宗教やるくらいなら
生長の家はいいよ。

499 :名無しさん@3周年:03/12/29 10:05
いいかな?妻の浮気も夫が悪い、夫の浮気も妻が悪い
病気は行いが悪いからとか業とか?
自分を責める宗教か?
講師や教区長の中には言葉が悪くてふんぞりかえってる人もいるよ
お金もかかるしね
プラス思考の考え方はいいけど押し付けがましいんだよね
私は脱会したよ


500 :名無しさん@3周年:04/01/05 19:28
「クサイモノニハフタヲシロ」を呪文にしている
                  ありがとう狂の一種です。

501 :生長の家逝ってよし!! :04/01/05 19:44
生長の家もやってることはありがとう狂そのものなんだから
まじで逝ってよしだね。

502 :名無しさん@3周年:04/01/17 09:20
逝ってよしなんか使ってる香具師がまだ居たのか……

503 :名無しさん@3周年:04/02/29 15:07
>>499
〜が悪いなんて言わないけど、神は悪い物は造らないから「悪」は本来ナイのでつ。
>お金かかるしね
月々400円のどこが高いのか?
今時400円じゃCDも買えないよ。

504 :名無しさん@3周年:04/02/29 15:12
>>481
漏れも練成行って3日でたばこ止められました、別に苦しくも無かったでつ
酒癖悪いの指摘されてたので酒も週1回になりました
漏れから見たら、酒やたばこ止めるのに止めれなくて苦しんでる人がいると言うこと信じられないでつ。
ネット依存症も平日は自粛出来るようになりました。

505 :名無しさん@3周年:04/02/29 15:28
>>503
本人が、月々400円でも高いバッタモンだと思うから
高いんだろ?
多寡にかかわらず安かろう悪かろうじゃねぇ・・・

506 :名無しさん@3周年:04/02/29 18:02
ここもいいよ
http://www.7-7-7.com/maria/top.html

507 :名無しさん@3周年:04/03/07 16:50
21世紀生長の家研究会
http://yume.gaiax.com/home/seichou


508 :20年前の誌友 :04/03/07 17:46
 以前、ほんみちの大西愛冶郎教祖が日本の敗戦を的確に予言し戦争中も「人間神の子」の
真理を貫かれ、戦争に対して反対の立場を取られていた事を紹介させて頂きました。私自身は
ほんみちの道人ではありませんが、ほんみち教祖の伝記である『天啓者の宗教ほんみち』と言う
本は生長の家の洗脳が解けるきっかけを私に与えてくれた本です。私にとってはいわば恩人の
ような本ですので再度紹介させてください。以下、引用します。

『天啓者の宗教ほんみち』P241〜242
 昭和二十年八月一五日、日本はポツダム宣言を受け入れて、連合国に無条件降伏をし、一五年に
及ぶ長い戦いに終止符をうった。この日は「隠れほんみち」として戦時下の苦難の時代を生抜いて
きた道人にとって、天啓者・大西愛冶郎の予言・警告の正しさが、はっきりと立証された日である。
うれし泣きする者、あるいは教えの正しさを再認識する者など、道人たちは日本の必勝を信じこま
されていた大多数の日本人とは違った反応を示した。

 見えてから説いてかかるは世界並み 見えん先から説いておくぞや
 だんだんと見えん事をばゆておいて 先で見えたらこれが神やで
 此の世をはじめた神のゆう事に 千に一つも違う事なし

『御筆先』の教歌のとおりであった。道人たちは自らの信仰に改めて誇りを抱き、光明を
見いだしたのである。
                                         以上
この本のなかで紹介されている教歌
「だんだんと見えん事をばゆておいて 先で見えたらこれが神やで」
に示されているように神の予言とその成就こそ、神様が老若男女いかなる人にもその実在をわかり
安く証明される為の手段であると思います。ほんみち教祖と違って谷口雅春が皇軍必勝の偽神示を
出してその予言がはずれたことは掲示板上でもたびたび指摘されています。谷口雅春と言う人間が
完全な偽預言者であると言うことは昭和二十年八月一五日の日本の敗戦によってあまりにも明確に
証明されています。

509 :20年前の誌友:04/03/07 17:50
また、ほんみち教団では日本の敗戦のみならずその後の民主改革についても予言されていました。
以下、引用します。

『天啓者の宗教ほんみち』P246〜247
   十分の道といえば、世界からつけに来る。世界からろくじという道をつけに来る。
 明治二一年三月九日の『御指図』からの一節だが、「ほんみち」の解釈によれば「十分の道」と
は、国家が信教の自由を認めるようになることであるという。また「ろくじという道」とは、人間
に貴賎の別などがなくなる状態のことであるという。なお「ろくじ」とは関西地方の方言で「平坦
な土地」をさしていう言葉である。この『御指図』の解釈を『ほんみち概観』から引用してみよう。
  ・・終戦後、信仰の自由は保証され、天皇は昭和二一年の元旦の詔書によって人間宣言を為し、
  憲法の改正により政権を失い、主権在民となり、華族、士族等、所謂貴族は廃止され、国会も
  貴族院を参議院に改められたことは、普く人の知る処である。
  これは誰がそうさせたのであるか。事件の取調べ係り官等は、
  「お前等は成るのであって、するのではないと言うが、皆お前等がするのではないか。」
  と、しつこく詰問して止まなかったのであるが、ほんみち人の働きによって前述の如き事実が
  生じたかどうか。当時のほんみちは、当局より禁止解散を命ぜられ、信徒の集合すら厳禁され
  て居たのである。其の間に、日本帝国は、米英等の如き大国に宣戦を布告し、大東亜戦争に突
  入し、敗戦の結果、連合国の占領治下に置かれ、其の総司令官たるマッカーサー元帥の占領に
  よって前述の如き結果を見たのである。これは単に、マ元帥個人の意思と言うよりも連合国一
  一ヵ国の意思と見るべきであって、前記の御指図通り、十分の道も、ろくじと言う道も、皆世
  界即ち連合国からつけに来たのである。
 こうした事態を迎えるようになったのは神の思わくどおりの進行結果であり、道人たちは、天啓
者によって事前に予告されていたのである。このような事態にたちいたることを予想できず、国家
権力に追随してきた他の宗教団体、とりわけ天理教は敗戦を迎えて苦境にたたされた。
                                         以上

510 :20年前の誌友:04/03/07 17:52
本のなかで国家権力に追随してきた宗教団体として天理教の名前があげられていますが、これは
ほんみちが天理教の分派教団であるからです。国家権力に追随してきた宗教団体に生長の家も含ま
れるのは言うまでもありません。本の中で書かれているように戦後のマッカーサーによる民主改革
こそ神様の思わくでありました。谷口雅春はこの神様の思わくを全く理解せず、明治憲法の復元を
となえ、戦前の国家体制の復活を企んでいました。この点からも谷口が神の言葉を伝える預言者で
はなく完全な偽預言者であったということがわかると思います。

511 :名無しさん@3周年:04/03/08 00:12
あげ

512 :名無しさん@3周年:04/03/08 16:07
以前まで講習会に何度も行ってたが納得いかなかった。
しかしシルバーバーチの霊訓を呼んですべてが理解できた。
所詮、生長の家も利益を目的としたそこら辺の宗教と同じだ。
生長の家の教義に納得が行かない人はシルバーバーチの霊訓をみ読んでるといい。
これほど完璧な真理は存在しない、とわかるはずだろうから。


513 :名無しさん@3周年:04/03/09 00:28
生長の家はかつて愛国運動の中心でした。
しかし初代センセが死んだあと、2代目の入り婿は日本青年協議会を追放し、
カルト教団化していきました。
更に国民運動に密かに参加する善良な教徒にたいしても酷い仕打ちを行っています。

3代目の糞にいたってはその左翼ぶりは西本願寺並みの醜悪さです。
その証拠に老台北こと蔡焜燦氏が日本と台湾の絆を書いたすばらしい本
「台湾人と日本精神」を絶版にしました。
つまりこいつは支那ごときの恫喝に乗って台湾人の自由への叫びを封じたのです。

このようなくさったカルトは即刻解散させるべきです。


514 :名無しさん@3周年:04/03/09 13:41

 









515 :名無しさん@3周年:04/03/21 01:35
生長の家の勧誘はしつこい。千葉県真砂の志賀万里子
本当にしつこい。

516 :名無しさん@3周年:04/03/21 17:38
人ごとだが、個人名出していいのか?
しつこいのは、確かだが。

517 :名無しさん@3周年:04/03/23 21:55
個人名は頂けませんね。
通報しますた

518 :名無しさん@3周年:04/04/06 01:07
新宗教教団・人物事典  発行所 弘文堂
谷口雅春(生長の家)旧名・正治。明治二六年(一八九三)一一月二十二日〜昭和六〇年(一九八五)
六月十七日
【出生】谷口音吉・つまの次男。兵庫県八部郡烏原村(現、神戸市)生。
【教団での呼称】尊師
【略歴】兄一人妹四人の次男に生まれるが、四歳のとき叔母にもらわれ、石津又一郎、谷口きぬ夫婦
の養嗣子となる。市岡中学時代より文学者を志し、早稲田大学英文科に進学。入学当初は厭世哲学に
浸るが、やがて耽美主義的な恋愛感情へのあこがれから故郷の近所の娘房江にラブレターを出し、同
棲する。この同棲によって養父母からの仕送りが途断え、生活に行き詰まって大学を中退。その後房
江と別れた谷口は大阪の摂津紡績に勤めるが、工場労働に嫌気がさし辞職。そのころから心霊治法や
催眠術に関心を持っていたが、『彗星』という雑誌で読んだ皇道大本(現、大本)の世界建て替え説
に興味を引かれ、綾部を訪れる。大本で文才を認められ、機関誌の編集を任されるようになり、そこ
で知り合った江守輝子と大正九年(一九二〇)に結婚。綾部では「大本のフランシス」と称し、一着
の衣服に一本の縄を締め、求道者的生活を送る。その間一燈園の西田天香とも接するが、満たされ
ず、大本への不信も芽ばえ、大正一一年著述に専念すべく上京。そこで『聖道へ』『神を審判く』を
著し、生活が軌道に乗りかけた矢先、大正一二年、関東大震災に遭う。






519 :名無しさん@3周年:04/04/06 01:07
妻の実家の高岡に避難し、そこで娘の恵美子が誕生。翌年神戸の養父母宅に身を寄せて、浅野和三郎
の心霊科学研究会を手伝う。しかし無報酬で清貧に甘んじる奉仕生活は養父母から歓迎されず、さら
に娘の病気を医者にみせる金もない無力感にさいなまれ、ある夜夢で神と対話する。「物質はない」
と聞かされた谷口は、それまでの清貧生活が逆に物質に捉われた生活であったと反省する。このこ
ろホルムスの「神は人間が思考するとおりのものをわれらに与える」という哲学に触れた谷口は、
奉仕生活と家庭生活の板ばさみを脱する手だてをそこに見出す。そして職業がすでに与えられてい
ることを念じたところ、バキュームオイル会社に翻訳係として就職が決まり、妻子とともに阪神沿
線の住吉村に移転する。ここがのちに生長の家の発生の地となる。ホルムスの哲学以後心をいかに
コントロールするかに思いをはせていたあるとき、静座合掌瞑目していると、突然威圧するような
声で「物質はない。実相がある。実相とは神である」と聞え、目の前に日の出のような光が燦爛と
満ちあふれたとされる。ついに神を見出し、不滅の生命としての自分を見出したと感じた谷口は、
この悟りの喜びを人類に伝えたい思いにつき動かされる。昭和四年(一九二九)「今起て」との声
に執筆を開始し、翌年三月一日『生長の家』誌を創刊する。これを機に現在生長の家の聖経とよば
れる「甘露の法雨」を初めとする詩がつぎつぎと霊感によって書きとめられていったとされる。
七年に『生長の家』の合本『生命の実相』を出版し、昭和九年には教勢発展のために上京し、株式
会社光明思想普及会を設立する。






520 :名無しさん@3周年:04/04/06 01:08
一〇年には新聞広告を掲載したことや、『主婦之友』が生長の家の紹介記事を載せたこともあり、
機関誌の発行部数は急速に増加する。こうして『光の泉』『白鳩』『いのち』らの機関誌がつぎ
つぎと創刊され、文書伝道と講習会による布教という生長の家の基本姿勢が確立される。大二次
世界大戦が始まるや谷口は「価値実現のための戦争」と称し、皇軍必勝をスローガンにするが敗
戦となる。昭和二三年にはGHQより公職追放の指定を受ける。この間二一年に宗教法人生長の家
が設立され、同年娘の恵美子がのちの二代目総裁荒地清超と結婚する。二七年以降谷口の関心は
個人の救済から国家の救済に向かったとされ、日の丸掲揚運動や明治憲法復元改正運動にみられ
るような右傾化を強める。昭和三五年の日米安保改定問題の際には『日の丸か赤旗か?』という
パンフレットを出版し、配布活動を行う。三八年谷口夫婦は初めてハワイ、北米、中南米、ヨー
ロッパと七ヶ月にわたる海外布教を行い、以後四七年、四八年にも北米、南米での講演を行う。
この間昭和三九年には政治活動の足がかりとして生長の家政治連合を発足させ、四二年には優生
保護法改廃期成同盟を結成する。昭和三〇年代から四〇年代にかけての学生運動に対して谷口は
戦後教育の歪みが日本国憲法に起因するものと考え、つぎつぎに憲法、国家に関する著作を著す。
五〇年谷口は住居を長崎に移し、龍宮住吉本宮の建立をめざす。谷口によれば、住吉本宮は世界
浄化・鎮護国家を目的として住吉大神を勧請・顕斎するものとされ、昭和五三年には長崎を生長
の家総本山としている。谷口の遺稿は死の約二ヶ月前に書かれた『碧巖録終講の辞』とされてい
るが、その中で谷口は「それでは“左様なら!!”とニッコリ笑って、皆様とお別れ致しませう」
と述べている。一〇日間程度食事を摂らなくなった後、昭和六〇年六月十七日九一歳で死去。






521 :名無しさん@3周年:04/04/06 01:44
『新興宗教 教祖のウラの裏がわかる本』
早川和廣著 ぴいぷる社 1988年11月25日発行
第二章 問題だらけの六大新興宗教の教祖たち
 ただ一人孤立する谷口清超・生長の家
 戦後、急成長を遂げた新興宗教の中でも、生長の家は、現在、脚光を浴びている新宗教
教団と共通する部分が多い。
 それは、創価学会、立正佼成会などが集団のパワーで、あるいは強引な布教活動によっ
て勢力を伸ばしていった中で、書物を中心に新聞、ラジオ、テレビなど、常に新しいマス
コミ・メディアを利用。宗教宣伝によって、教勢を拡大していったことと、宗教をビジネ
スとした先駆者であったからである。
 だが、その生長の家も、昭和六十年六月十七日、教祖・谷口雅春総裁が九十一歳の生涯
を閉じたことで、大きな転機を迎えている。それを象徴しているのが、毎年、文部省に届
け出る信者数の大幅な減少であろう。
 もともと生長の家は昭和五年、谷口が三十八歳のとき「生命の実相」を世に問い、夫人
と二人で始めたもので、十四年には宗教法人に発展、創価学会の急成長が始まった三十年
代初期には、信者数百三十万人の大教団に成長。最盛期には公称三百三十万人を誇ってい
た巨大教団である。
 昭和六十一年版の『宗教年鑑』でも、生長の家の信者数は、三百万九千五百五十八人と
なっているのだが、それが、この五月に発表された六十二年版では、なんと八十万四千八
百七十五人と、わずか一年間で、二百二十万人の信者が消えた計算になるのだ。この二百
二十万という数字は、天理教、PL教団などの大教団に匹敵する信者数である。
 その結果、これまでは創価学会、立正佼成会に次ぐ巨大新興宗教教団だった生長の家は、
公称信者数に限れば、大教団から並みの教団になってしまったのだ。






522 :名無しさん@3周年:04/04/06 01:45
 宗教団体の公称信者数が、当てにならないのは、いまに始まったことではないが、いっ
たい生長の家に何が起こったのだろうか。
 教団側の説明では、これまでは教団で発行している六種類の月刊誌の発行部数を信者数
として発表していたのだが、そうした数え方をやめて、単純に「聖使命会」の会員数を信
者数として届け出た結果だという。
 この聖使命会というのは、教団の布教機関のことで、その会員ということは、要するに
会費を納めている生長の家信者である。
 それにしても、なぜ、宗教界の慣例を無視して、あえて“水増し”をやめてしまったの
か。“水増し”が常識という世界だけに、正しいはずの発表が、かえって、さまざまな憶
測を呼んでしまったのだ。
 教祖の女婿として結婚、二代目を継いだ谷口清超・現総裁は、東大心理学科を卒業した
エリートで、宗教指導者というよりは学究肌の人物だけに、「話が難しくて、面白みに欠
ける」という信者たちの声もあった。
 実際、生長の家にとっては、教祖があまりに大きな存在であっただけに、教祖の死後、
そのカリスマ的魅力にひかれて入った信者たちが離れていったことも確かであった。
 しかも、教祖の死後、二代目こそ清超だが、教団の実権は教祖未亡人と清超夫人の二人
が握るのではないかといわれていた中で、清超総裁は教団の基本方針を変更。そのもっと
も大きなものが、政治の世界からの全面撤退だったのだ。
 政治に影響力を持つということは、逆の見方をすれば、政治家が金と票目当てに群がる
ということにほかならないが、影響力を発揮するためには信者数が多いに越したことはな
いのである。






523 :名無しさん@3周年:04/04/06 01:46
 もともと、生長の家は立正佼成会とともに深く日本の政界と関わってきた宗教団体の一
つであり、特に自主憲法制定を掲げ、靖国神社国家護持問題を積極的に推進。仏所護念会
や世界救世教などとともに“右派宗教”の代表的な存在であった。
 そして、政界に隠然たる力を持っていた宗教政治研究会(宗政研)の設立に、もっとも
寄与した教団であった。
 そのため、生長の家といえば必ず、宗政研の会長だった玉置和郎(自民)の名前が上げ
られたのである。しかし、生長の家をバックにした玉置が、昭和六十二年一月、亡くなっ
たこともあって、生長の家は急速に政治の世界から、距離をおくようになったのである。
 その結果、選挙にも関わらないことにしたため、公称信者数にこだわる必要などなくな
ったというわけである。
 だが、だからといって、信者数の水増しをやめるというのは、おそらく二代目の性格的
なことが影響しているのであろう。
 そして、政治からの撤退は、二代目なりの生長の家の軌道修正なのかもしれない。いわ
ば、汚れた生長の家を、宗教本来の姿に引きもどそうという二代目なりの試みというわけだ。
 というのも、現在の新宗教の元祖的な存在であるだけに、生長の家の歴史は広告戦略、近
代化といえばカッコイイが、要するに宗教のビジネス化に成功した軌跡であり、政治との関
わりもまた、同じところから出発しているからである。






524 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:13
『新興宗教のウラがわかる本 カネと権力と醜聞にうごめく教祖たち』
著者 段勲 政界往来社 1986
 教団運営に後顧の憂いを残したカリスマ教祖 生長の家・故谷口雅春総裁
 総本山建設に二百億円投じた“出版宗教”
 長崎県・大村湾をのぞむ西彼町の「生長の家」総本山を訪ねた宗教ジャーナリストが、小高
い山に登り、上から同教団の全景をカメラに撮ろうとした。同道した教団職員に、
「ところで、生長の家の敷地はどこからどこまでですか」
と、尋ねた。するとその職員は、涼しい顔をしてこう答えたそうである。
「はい。あなたの目で眺められる範囲が全部そうです」――。
 国鉄・長崎駅から大村湾県立公園に面した国道二〇六号線をバスでひた走るこ
と約七十分。西彼町を突き抜ける国道横に朱塗りの大鳥居がドカンと見えてくる。
「住吉本宮」の看板が中央に据えられた高さ二十二メートルの大鳥居は、なんで
も日本で二番目に大きいものだという。
 この大鳥居を玄関口にして、山を切り開いて建てられたのが生長の家総本山で
ある。教団の発表によると総面積が約百万坪(三百三十万平方メートル)。西彼
町全体の面積が約六千九百五十平方メートルだから、生長の家総本山は、その約
二十一分の一を占めることになる。
 生長の家本部は東京都渋谷区神宮前(現在)に置かれているが、昭和五十年、
約二百億円の巨費を投じてこの長崎に総本山を建設した。
 公称信者数は三百三万人(『宗教年鑑』五十九年度版=文化庁編)で、久保継
成率いる「霊友会」の三百十万人とほぼ同規模の勢力である。ただし、同規模と
はいえ久保継成の場合は、初代会長の伯母・小谷喜美から受け継いだ跡取りだが、
生長の家は故谷口雅春(六十年六月十七日、享年九十一歳の大往生)が一代で築い
たものだ。






525 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:13
 谷口雅春は、新興宗教の教祖の中で、カリスマ的要素を持った最後の人物といわれた。
生前、谷口の思想が左、右とクルックルッと変わった。そんな谷口の性格に反発を感じ
て、生長の家と別れた何人かの幹部もいたが、創設以来、過半世紀の間にこれといった
組織分裂も内紛もなく、まずは順風な組織運営であった。そのカリスマ指導者である谷
口の生涯をしばらく追ってみることにしよう。なぜなら谷口の足跡は即、教団「生長の
家」の歴史でもあるからだ。
 谷口雅春は明治二十六年十一月、兵庫県八部郡で農業を営む父・音吉、母・うまの次
男坊として生まれている。四歳のときに、音吉の妹のところに養子に出された。大阪市
立春日出尋常高等小学校を首席で卒業したというから頭は切れたらしい。
 明治四十四年に、早稲田大学高等予科(文科)に入学。大正一年に、早稲田大学文学
部英文科乙組に進学した。早大時代の同窓生に作家の直木三十五、詩人の西條八十、文
芸評論家の青野季吉、評論家の木村毅といったメンバーがいた。
 大正三年に早稲田を中退。理由はつまびらかではないが、このころ、何度かの恋に破
れた文学青年で、中退の原因も女性ではなかったか、ともいわれている。大学を去った
後、摂津紡績(現在のユニチカ)に入社するが、ほどなくして退社。そして七年、京都
府綾部の大本(通称、大本教)を訪ねて入信した。谷口が宗教と最初に関わったのがこ
の大本であった。大本では教祖の出口王仁三郎に文才が認められ、同教団の本などを書
いていたという。
 昭和四年十二月に雑誌「生長の家」創刊号(定価三十銭)を印刷。その巻頭の言葉は、
「蛇に睨まれた蛙のような恐怖心が就職、入学試験の失敗や病気、軍備を生む」
 というものであった。そして翌五年、「生長の家」の名称で宣布を開始するのである。
昭和五年といえば、創価学会の前身「創価教育学会」が開創された年でもあった。
 谷口の「生長の家」の布教は、すでに結婚していた輝子夫人とたった二人で、雑誌
「生長の家」を売り歩くことから始まったのだ。そのために生長の家は、“出版宗教”
などともやゆされている。






526 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:14
 海外布教に精を出した谷口雅春
 教団「生長の家」の教義基本になった谷口雅春著の『生命の実相』第一巻が出版された
のは昭和七年である。十一年に教化団体「生長の家」を設立。同年、婦人部組織である
「白鳩会」を結成している。そして二十一年九月に宗教法人令に基づき、宗教法人・生長
の家が設立された。
 三十九年に政治結社「生長の家政治連合」を発足させ、翌年の四十年七月、参院選全国
区に初めて玉置和郎(現・衆院議員)を推せんし、第三位で当選させている。
 また、「生長の家」は海外布教にも熱心で、早くも昭和二十五年には教団幹部をハワイ、
アメリカ本土に派遣。三十年にはハワイに駐在員を置いた。また、谷口自身、戦後、三度
にわたって海外に出ている。一回目は昭和三十八年三月、ハワイを振り出しに、ニューヨ
ークなどアメリカの主要都市を回ってメキシコ、ブラジルに向い、ロンドン、ジュネーブ、
パリなど、約半年間世界中を回って海外会員の激励に奔走している。二回目は四十七年、
やはり、アメリカ、メキシコなどに二ヵ月間滞在。そして、三度目も四十八年にアメリカ、
メキシコなどを回った。
 現在、生長の家の海外会員数は約百万人ともいわれ、韓国、中華民国、シンガポール、
スリランカ。イギリス、西ドイツ、オーストラリア、ガーナ。アメリカではハワイ、ロサ
ンゼルス。カナダのバンクーバー、トロント。ほか、ブラジルなど、世界主要都市を中心
に伝道本部、会館を置いている。
 また、谷口は自筆の個人雑誌を販売し、読ませることからスタートした教団だけに、谷
口自身、晩年まで本を書き続け、作家も顔負けの多くの著書を残している。
 代表的なものでは、『生命の実相』全二十巻。同書の発行部数は今日までで千六百万部
に達し、さらに英語、ポルトガル語、スペイン語、ドイツ語、韓国語、中国語の六カ国語
に翻訳されているという。ほか、『真理』全十巻。『谷口雅春選集』『新選谷口雅春選集』
『新選谷口雅春法話集』『谷口雅春童話集』。かたわら教団の定期刊行物である「生長の
家」「白鳩」「光の泉」「精神科学」「理想世界」などの月刊雑誌や、新聞「聖使命」な
どに著作を発表してきた。






527 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:16
大宅壮一全集 第十三巻
 谷口雅春
 大組織の宗教百貨店
 世界旅行で私が得た大きな収穫の一つは、MRA(道徳再武装運動)というものの正体が非
常によくわかったことである。戦後日本人で外国へ行ったものの中で、“MRAの招待”とい
うのが大きなパーセンテージを占めている。その中でも国会議員、地方議員、知事、市長
などの公用族が多い。しかし比率からいってもっとも多いのは革新政党の議員や労組の幹
部である。かれらはわれもわれもとMRAの大会に出かけて行って何を得たであろうか。 
 スイスのコーというところに、MRAの夏期練成道場がある。これは、“道場”といって
も戦時中の日本にあったような殺風景なものでなくて、すばらしく豪しゃなホテルである。
世界一景色のいいところにある最高級のホテルで、世界の珍味を集めた料理を食って、
“チェンジ”する、すなわち心を入れかえるのである。階級闘争や有色人種運動の指導者が、
資本家や白人に対する憎しみを捨てるのである。近ごろの流行語でいえば“洗脳”だ。
中国では、革命に協力しない反動分子を“思想改造所”という監獄に入れて“洗脳”を行って
いるが、MRAでは、ありったけのぜいたくをさせることによって同じ目的を達しようというの
である。ただしその手段が全然逆であるとともに、チェインジさせる方向も正反対である。
 これに要する莫大な費用はどこから出ているのかわからないが、これを思いついたブックマン
という男はタダものではない。一種の精神運動であって宗教ではないといっているが、あらゆる
宗教がその中に取り入れられていて、やっていることは宗教とほとんど変わりはない。ブックマ
ン自身も、見るからに“教祖”そのものである。これが“洋行”好きな日本人、特に議員族の
盲点をついたのだ。






528 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:17
 この種のカクテル宗教は、世界的な流行と見えて、ほかにもまだたくさんある。階級的、
民族的対立の激化、既成宗教の動脈硬化と宗教的エゴイズムにあいそをつかした人々が、
こういった超宗派的宗教にひきつけられるのであろう。
 日本にもこれに似たものがいくつか生まれた。例えば昭和の初めに広池千九郎の始めた
“モラロジー”(道徳科学)などがその代表的なもので、これは釈迦、キリスト、孔子な
どのエキスをすべて調合した複合ビタミン剤のような形で売り出し、一時は大きな道場を
もって大いに繁盛したものである。彼は大正六年の東大政治科出身で、当時の新興宗教界
ではインテリであったが、いつのまにか時代おくれになってしまった。
 これに代わって登場したのが谷口雅春の“生長の家”である。広池は天理中学の校長を
しているうちに宗教企業の妙味を知り、経営のコツを学んで、新しい一派を開いたのだが、
谷口は大本教の出身である。広池は官学出で、漢学臭が強かったのに反し、谷口は早大英
文科中退で、文学的教養があり、英語はもっとも得意とするところである。この間亡くな
ったメシア教の岡田茂吉も大本教出身であるが、このほうは美術学校中退だけあって、美
術趣味というよりも骨董臭味が抜けなかった。
 文筆的表現力という点からいうと、もともと小説家志望で、これまでに小説も書いてい
る谷口にかなうものは、この国の“神々の世界”には見当たらない。それに谷口は、かつ
て神霊学時代を現出した浅野和三郎の高弟であり、クリスチャン・サイエンスやフロイド
の精神分析なども、自分に都合のいいところは巧みに摂取している。それどころが、マル
クスさえも薬味のように取り入れている。“生長の家”営業案内みたいなパンフレットに
よると、「“生長の家”を『宗教百貨店』といい、ある人は『抜粋』といいます。百貨店
には一流の商品がならんでいて、市井の小売店よりも優良品がそろっていますように、そ
こには真理なる生粋の優良真理を抜粋して陳列してあるのであります」ということになる。
自ら“百貨店”であることを認め、他の宗教を専門店、いや“市井の小売店”扱いしてい
るのである。






529 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:22
 こうしてこの“宗教百貨店”は大いに繁盛し、“信徒”すなわち常顧客は約百三十万、
“講師”すなわちセールスマンは本部五十七名、地方二千余名、“道場”すなわち支店
は二十九か所(外国三か所)、“誌友相愛会”すなわち特約店は約二千か所(外国九十
か所)という膨大なる組織をもつに至ったのである。
 昨年東京都渋谷区隠田にできあがった“教団本部”すなわち総本社は、敷地約四万平
方メートル、地階とも七階から成る“生長の家独創様式”の建物延坪四千三百平方メー
トル、大小約八十室、総経費約三億と号している。このほかに数多くの外郭組織をもっ
ているが、それについては後でふれることにする。
 いったいこのような組織がいかにしてつくられたのであろうか。その創立者で、今も
この組織の独裁的支配者である谷口雅春とは、果たしていかなる人物であろうか。見た
ところいかにも柔和で、女学校の校長といった感じであるが、現代日本の生んだ大きな
“怪物”の一人であることに変わりはない。

 大本教の聖フランシス
 谷口雅春、本名は正治といって、神戸市外烏原村(後に貯水池となって消えた)で音
吉の次男として、明治二十六年十一月二十二日、旧暦の十五日朝、満月が沈みかかった
ころ、「太陽と月の二つの光に照らされつつ、護られつつ生まれた。」こういう太閤秀
吉みたいな伝記をあつかましくも自分で書いている。
 四歳のときに叔母の家へ養子にもらわれて、大阪の小学校に通った。小学校で算術の
点数が悪かったのは「計数の概念と施与の概念を混同した」。すなわち先生を喜ばせる
ために、試験の答案に数字の水増しをして出したからだという。このこじつけの才能が、
後年彼の書く“御文章”に一貫しているともいえる。






530 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:25
 市岡中学では死んだ直木三十五の一年上級であった。そのころ谷口はやせていたが、腕
相撲は強く、手のひらが人一倍大きかった。恥ずかしくもあったが「この手は天下を握る
手だ」と思ってうれしくなったという。
 作文は級中第一をもって自認していたが、日々の感想緑を「ペン尖」と題して自分の教
室の入り口に臆面もなく額縁に入れて提示してしかられた。このころすでに中学生として
珍しい表現欲と表現の才能を持っていたことは確かだ。
 中学を終えて大学の科目を選ぶにあたり、養父母は医者になれといったが、早大の文科
に入ってガッカリさせた。しかしかれは後年医術がいやし得ない病人をなおすようになっ
たのだから、医者以上の医者になったのだといっている。
 早大では青野季吉、西条八十、木村毅、直木三十五などと同級であったが、彼は首席で
特待生になったことをたびたび書いている。当時の同級生の話では、谷口は英語のよくで
きたことは事実だが、そのころの文科の学生は自然主義にかぶれて、学校の勉強に力を入
れるものが少なかったからである。
 谷口自身も、田山花袋の“無理想無解決”という自然主義理論の影響をうける一方、オ
スカー・ワイルドやダヌンツィオの芸術至上主義に共鳴し、美を善悪以上に重んじるとい
う当時の風潮に巻き込まれた。その結果、偶然会った「女の胸のカンバスに“恋”という
絵を描いて去れば、宇宙に感情のデリケートな線で描かれた美術が一つふえる」という考
えから、大阪の養家の近所に住む少女にラブレターを書いた。ところが、その少女は貧し
い家の養女で、芸者見習中に朋輩の衣類を盗んで刑をうけた前科者で、東京の彼の下宿に
押しかけてきた。一周間という初めの約束がのびのびになって、ついに女は妊娠し、流産
した。このことが養家に知れて学費はこなくなった。
 女は、芸者に身を売って彼に貢ごうと決意したこともあるが、彼は大学をやめて、二人
で神戸の女の養家にころがりこんだ。とどのつまり、女は台湾芸者に売られて行って、彼
は五十銭の日給で紡績会社の職工となって自活した。






531 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:27
 まもなく外国雑誌の記事を翻訳する内職が見つかって、収入がグンとふえた。そのころ
彼は二人の女と同時に関係したが、一人は彼のつとめている会社の上役のめいで、もう一
人は娼妓であった。この娼妓の源氏名は、仙台侯をふったのと同じ“高尾”で、谷口以外
の男の膚にふれぬという心願を立てて、たいへんな評判になったという。
 しかし彼のほうは、この女から病毒をうつされてひどく煩悶し、神経衰弱になった。そ
して当時有名だった催眠術師三好霊峰のもとに通うとともに、心霊術の書物をあさり出し
た。心霊術となると、その大本山は大本教で、浅野和三郎が主となってこれを指導してい
た。もともとそういった方面に興味と素質をもっていた谷口は、水の低きにつくがごとく、
大本教に吸いつけられていったのである。
 そのころの綾部は、大本教の“世界建替説”で沸き返り、これを真にうけたものが全国
からワンサと押しかけていた。明治二十五年に書かれた教祖出口なおのお筆先によると、
その“建替”は明治五十五年すなわち大正十一年五月五日に起こるというのである。その
ときがくれば、日本対全世界の大戦争が起り、敵の空襲や天変地異で日本の大部分は灰じ
んとなるが、綾部を中心とする四十キロ四方はこれを“下津磐根”とする一枚岩の上にあ
るから絶対安全地帯である。その審判の日に焼き滅ぼされないために、一日も早く神さま
のご用をしなければならぬというのだ。
 この審判が終わって大本教が世界を統一した後に生まれた新秩序のもとで、出口家は代
々祭祀長、浅野家は代々政務長となるものと予定されていた。そのほか、イギリスやアメ
リカの“太守”に任ぜられるものの下馬評まで行われていたくらいだ。当時大本教では大
阪の大正日日新聞を買収したが、建替後はどうせ通用せぬ金だからと信者の有力者を説き
伏せて保証人とし、借用証書を入れて、支払い期は建替予定日の大正十一年以後にしたの
である。






532 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:29
 こうした空気に包まれている大本教の中に入った谷口は、たちまちその才能を認められ
て頭角をあらわした。大本教の機関誌『神霊界』に投書したのが動機となって、その編集
陣に参加し、まもなく編集長となった。彼の文名は大いに上がり、浅野和三郎の『大正維
新の真相』の向こうを張って『皇道霊学講話』を書くところまで行った。さらに彼の筆は
「建替を予言した大本教の筆先と、仏説弥勒下生経や、聖書の基督再臨論とを対照させて、
その世界建替説に一層確実らしい傍証を与えた」のである。
 そのころの彼は、ただ一枚の着物しかなく、その上に一本の縄の帯を締めて、みずから
“大本教のフランシス”と称していた。また「私が執筆している光景を横合から霊眼で見
ていて、私と異る霊人が筆をとっている有様をありありと見たという人もあった」と自分
で書いているところを見ると、彼も大まじめでこの建替説を信じ、バスに乗り遅れまいと
真剣に努力していたのかもしれない。
 出口王仁三郎の著書に『霊界物語』というのがある。これは全百四十四巻(ただし八十
二巻まで出たときに検挙されて中絶)という膨大なものだが、内容は出口の精神分裂症的
頭脳から出た妄想を筆記したにすぎない。谷口もその筆記者の一人に選ばれた。つまり王
仁三郎の祐筆に抜てきされたのである。
 しかしこれまでの彼の経歴を見てもわかるように、谷口は女にもてる、いや、“女難”
の傾向がある。しかもたいてい相手は複数である。大本教においても、同時に二人の女が
いた。一人は高等女学校教諭をやめて大本教にやってきたという教団きってのインテリ女
性で『霊界物語』の筆記者でもあった。谷口よりも十五歳も年上の“処女”で、王仁三郎
から“因縁のあるミタマ”だといいよられたのをけって、谷口を慕った。もう一人は十八
歳で、大阪の商家の息子と結婚したが、良人が放蕩者で逃げ出してきたという文学少女で
ある。(この種の宗教にくる女はこういう型が多い)






533 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:32
『新興宗教を告発する 信者を嵌める欲望の神々(だまされた信者たちの生き地獄の実態
と怒りの声!宗教の隠れ蓑を着て信者から金をしぼり取る欺瞞教団の手口が歴然!)』
青年書館 著者田中一京 1987年発行
第五章 教団の実態に失望し裏切られ嫌気がさした
『生長の家』
組織の閉鎖性と信者の犠牲の上に成り立っている教団の金権体質を見せられ失望した

 これは現在神奈川県横須賀市に住む元生長の家青年部長のTさん(二十八歳)が、教義
と信者の行動や考え方の矛盾、及び教団内部の軋轢やその実態について、一信者としての
教団に対する失望や不満について語ってくれた事例である。
         ☆
――なぜ匿名にする必要があるのですか。まず、その理由から聞かせてください。
「現在、私の両親と妹、それに親戚の者が熱心に生長の家の信者として信心しているから
です。地方では信者同士の結束が強くて、私が教会のことを喋れば必ず残っている者が白
い目で見られますし、村八分にされるおそれがあるからです。都会では考えられないこと
ですが、田舎では隣近所の連帯意識がものすごく強くて、私の出身地と名前がわかれば皆
に迷惑がかかると思うからです」
――生長の家の教義ではすべてのものと和解せよといっていますし、他人に対する施愛が
すべてだと教えているのではないのですか。
「谷口先生の教えは確かにそのとおりです。しかし、それが一つの目標(信仰)に向かっ
ているときはいいのですが、やはり組織の中には閉鎖的な部分があって、外部から攻撃さ
れるような事態が発生すると、お互いに仲間意識というか、組織を守ろうとして、あれこ
れ圧力をかけてくるわけです。まあ一種の防衛本能というやつが働き排他的になるわけです」






534 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:37
――具体的には誰からどんな圧力がかかってきますか。
「直接には会員から教会に対して、あるいは他の会員に感謝する心がないなどと嫌味を言
われ、それは親兄弟の責任だと周囲から責められます。会員の感情としては、裏切り者の
家族だというようなしこりをいつまでも持ち続けるわけです。私の友人の家族でやはりそ
んな目に遭って、地元にいられなくなった人も私は現実に見て知っています。どの宗教で
も同じだと思いますが、その組織の中に入ると外から見るのとは大分様子が違います。そ
れは教会の教えを忠実に守ろうとする会員の熱心さから、そういうふうに閉鎖的になるの
でしょうが……」
――では、あなたが生長の家の信者になった動機と退会した理由を聞かせてください。
「母が生長の家の熱心な信者だったことと、妹の病気が治る、いや治してくれると聞いた
こと、それに父が事業に失敗したことなどが重なったものですから、それで入会したんで
す。また、私が退会しようと思ったのは、父が事業に失敗したことで家の状態が最悪だっ
たとき、その苦しい生活の中から母がなけなしの金を教会へ持っていくし、次から次に教
会の本を買わなければならない、そんな状態が続いていたものですから、なぜ金に困って
いる者から平気で金を取るのか、それが宗教の本質だったのかと疑問を持ったからです。
それに妹の病気も全然よくならなかったから……」






535 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:40
――信者の方は毎月どれくらいのお金を生長の家へ納めるのですか。
「生長の家には“聖使命会”という会員の布教機関がありますが、この会に所属する会員
は必ず本部に毎月会費を納めなければなりません。そしてこの会員にもランクがついてい
て、家族会員が月額一口百円、護持会員が月額四百円以上、什一会員が月額千円以上、特
志会員が月額一万円以上と一応最低の基準が決められており、これより多く納める分につ
いてはいくらでもかまわないのです。
 そのほか練成会に出席すると、いろんな行事毎に五千円ぐらいから二万五千円くらい奉
納しなければならず、必要以上にいくらでも金がかかります。ですが毎月必要な金額は人
によってそれぞれ異なります。私の場合は三千円本部に納めていましたが、母は二万円か
ら三万円くらい本部へ持って行ってたようです。
 あと必要な金というと『聖使命』という新聞や『白鳩』『理想世界』などの本を毎月四、
五千円分買わされていたんです。多分本部に問い合わせてもそんなに金はかからないとか、
信者の方に強制はしていないなどと返事するでしょう。ですが信者の立場からするとそれ
を断るわけにはいかず、いくら生活が苦しいといっても、信心に必要なものですから買わ
ないわけにはいきません。そうした雰囲気が生長の家の内部にはあるし、仮に信者が困っ
ているからといって、いちいち金を返すようなことはしません。取りっ放しのもらいっ放
しです」






536 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:53
《求道の画家 松本竣介 ひたむきの三十六年》(中公新書) 
宇佐美承著 中央公論社一九九二年発行
 恋に破れ、靉光のもとへ通うようになって三年たった一九三六年(昭和十一年)、竣介
は二十三歳で新たな恋を実らせた。相手は東京山の手の大学教授の娘で松本禎子といい、
半年年下だった。仲をとりもったのは「生長の家」で、それは竣介を思う身内の心情と関
係あってのことだった。
 父佐藤勝身はもともと、霊と肉のはざまで自分を苛む人だった。少年のころ、教会に出
入りしてまもなく洗礼を受けたのに、おこりくる肉欲のために聖書のことばが守りきれず、
受洗者名簿から名前を消してもらった。その後は信仰を捨てたことで以前にもまして苦し
みつづけ、結婚してふたりの男の子に恵まれてからやっと救われた。
 勝身にとって子は宝だったから、長男の彬が大病をわずらったときも心配でいたたまれ
ず、聖書を読みかえしてみた。それでもキリスト教の信仰にもどれずにいたところへ、竣
介が生死のはざまをさ迷いはじめたのだから、藁にもすがる思いで日蓮宗の行者に救いを
求め、わが子が命をとりとめたときは奇跡をみたと思った。
 それからというものは竣介の聴力の回復と幸福だけをねがい、団扇太鼓を叩きつづけて
とうとう破ってしまうほどの熱心な信者になったばかりか、奥義を極めようとして経典に
読みふけり、高僧を訪ねて教えを請うた。しかし、法華経の教義はむずかしくて歯がたた
ず、またも悩んでいたとき生長の家の信者の癌が治ったときき、雑誌『生長の家』を読ん
でみたところ、たちどころに法華経と聖書が同時に理解できた思いがした。生長の家はあ
らゆる宗教を超越すると宣言し、神を生命だとしていた。勝身はさっそくその団体の支部
を盛岡につくり、創始者谷口雅春を神戸の郊外から招いた。






537 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:54
 それは竣介が故郷を出てからしばらくしてのことで、この団体はまだ揺籃期にあったが、
その後みるみるうちに発展していき、竣介上京五年後の一九三四年には本拠を東京に移し
て正式に教団を名のり、普及のための出版会社「光明思想普及会」をつくった。勝身は経
営する銀行が別の銀行に吸収されたのを機にその会社の常務取締役に就任して故郷をあと
にし、谷口との共著『法華経解譯』を出版したりもした。すべてはわが子の幸せを願って
のことで、心の彷徨の末にここにたどりついたのだった。
 弟思いの彬も、勝身に勧められて熱心な信者になった。彬にはハツカダイコンのあだ名
があって、上京してしばらくは少し左翼だったけれど、唯物論がいまひとつしっくりこず、
これを越えた何かを求めていたところ雑誌『生長の家』を読んでたちまち共鳴した。やが
て谷口にあって講師団の一員になり、谷口から芸術雑誌『生命の藝術』を発刊する話をも
ちだされると、これは弟にもってこいの仕事だと思ってひきうけ、竣介を誘った。
 竣介は理を通す青年だったから、なかなかうんといわなかった。以前に父の勧めで『日
蓮上人傳』を読んだときも「日蓮は釈迦一仏に還れといって法華経を説いたのに、一派を
おこしたのはおかしい」といっていた。こんど勧められるままに谷口の著書を読んだとき
も「ぼくは宮澤賢治がすきだ。宗教はきらいだ」といっていた。それなのに、三年かかり
はしたが結局はそこの雑誌の編集を担当することになったのだから、内に何かの変化がお
こったのだ。
 あのころマルクス主義は先端の思想だったから、それに従わなかった以上、つぎに別の
ものを求めねばならぬとさぞかし思ったことだろう。そんなときに谷口の「事物の本質は、
目に見えぬ生命の流れ」という、マルクス主義と正反対のことばを突きつけられ、三年間
拒否しつづけたあげく、やっとそこに心の拠りどころをみつけた。自分は理の勝った男だ
と知っていたうえで、その理を通すマルクス主義に失望し、改めて自分をみつめなおした
のだった。





538 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:55
 こうして兄とともに『生命の藝術』を編集しはじめたのだが、一九三三年の初秋、その
雑誌の第二号に信仰告白の文章を書いた。「谷口先生、父、兄及び、過ぎし日にさゝぐ」
と前置きして……若者は辞書のなかに真実がかくされていると思っているが知識は決して
自由を与えてくれない……叡智をともなわない知識は動力のない機関と同じだ……知識と
真理がちがうことがいまわかった……これまで愚かだったために大きな代償を払わなけれ
ばならなかった……と書きつづけたあと「私は肉体の自由と、青春を剥奪される事によつ
て、かすかに神の息吹きに接する事を知つた」と告白し、谷口の文章をひきながら、「あ
らゆるものゝ姿が無限に生長してゐる生命の顕れである事を知る時、小さな知識を固執す
る事をしない」と書いて生長の家の思想に共鳴していることを鮮明にした。
 このように共鳴したうえで、そこの芸術雑誌を編集し、筆を執ることは歓びであった。
『線』のときもそうだったが竣介は、絵を描くことにおとらず文章を書くことや編集する
ことに情熱を感じていた。日々模索する自分を表現するには文章は絵と同じくらい有効だ
し、二つは一つにならねばならぬとさえ思っていたからだ。そしてその仕事の場で松本禎
子に出あった。

 しばらくしてふたりは生長の家をはなれた。そのころ竣介は禎子に「谷口先生は神様に
なって遠くへいってしまわれた」といっていた。それは生長の家が思想・教養の団体から
宗教団体へと様がわりしていく過程におこっていたことだろう。竣介のことだからこんな
控えめな物言いをしたのだが、宮澤賢治の「雨ニモマメズ」の詩の横に「賢治が好きだ。
宗教は嫌ひだ」と書いていた。このあとにも、自分たちで出しはじめた雑誌『雑記帳』に
「実際教団といふものや、出版界の表裏を見てゐると我慢ならないものがあるんだ」と書
いたのだから、もっと激しい批判をもっていたろう。
 生長の家は佐藤、松本両家の人びとがぞっこん惚れて近づいたころからしばらくして、
教団と、普及のための出版会社をわけ、聖典『生命の実相』の販売に力を入れるなどして
急速に発展していったのだが、その間に谷口はカリスマ性をもってきて現世利益を説くこ
とが多くなっていったし、幹部のなかに内紛もおきていたのだ。

539 :名無しさん@3周年:04/04/10 22:57
 竣介と恒は相談した。恒もすでに嫌気がさしていて、結局竣介が谷口に別離の手紙を書
くことになった。竣介は画業に専念するために去るのだと書いたが、いっぽうで、これま
で育ての親のつもりで接しておりましたのに、と前置きしたうえで教団と谷口を批判する
ことも忘れなかった。谷口からきびしい叱責の返事がきたが、決意は変らず最後の仕事と
して『生命の藝術』(昭和十一年十月号最終号)に「狐になつたアルカム」という寓話を
書いた。宮澤賢治の語り口を借りながら教団と谷口を批判したもので、つぎのような話だ
った。
 舞台となったイートラム国は、そのころの共産主義者が夢みていたユートピアを思わせ
た。文化と科学がとことん進歩して病気も貧乏も絶えたが、人民の精神はしだいに衰えて
いく。そこで指導者が道士アルカムを招く。アルカムの導きでイートラム国の人民が理想
の人類になろうとしたその矢先、アルカムは全国民との問答の最中にとんでもないことを
口走ってしまって面目を失い、野ぎつねの正体をあらわす……。

 竣介と前後して勝身も彬も恒も生長の家を去った。勝身は思い入れの激しい人だったか
ら「先生は驚くべき言行不一致だ。乱離骨灰、それでいてなんら恥じるところがない」と
怒り狂っていた。
 でも生長の家での三年間は、竣介にはむだではなかった。プロレタリア美術家同盟の唯
物論に満足できずにいたときこの思想に触れ、頼った。そこの芸術雑誌を編集しながら本
を読み、文章を書き、絵を描いていくうちに自分を深め、つぎなるステップにそなえた。
つまりこの三年間は、合理追求という竣介の一生から外れた道ではあったけれど、その道
にも一里塚があったことはたしかだ。 竣介たちが去ったあと生長の家は『生命の藝術』
を廃刊して新雑誌『いのち』に切り替えたが、それは「時局に即応した」方針をとるため
だった。いっぽう竣介は『雑記帳』でその“時局”を激しく批判することになる。





540 :名無しさん@3周年:04/04/10 23:00
教祖 佐木秋夫 青木書店 1955年12月25日発行
 美しい生活か、聖者のような生活か、どちらにしても「自分の血と肉で人生に戯曲
を書く」のでなければたえられない(谷口正治「入信の経路」大本発行『神霊界』
一九一九・二・一五号所収)。だがそれはどこまでも「戯曲」なので、自分の基本的
な生活まで棒にふる決心をしたわけではない。そんな気分で夏休に帰省したとき、
近所に住む房江という一七歳の貧しい女につけ文をした――「美しい恋愛感情」を
わき立たせて、人生に美の一片を寄与するために(「自伝」)。そしてその結果を
待たずに――自分の自尊心を拒絶されるという危険をさらすことなしに――東京に
たつつもりだった。ところが意外にも、房江は彼の汽車に乗りこみ、東京の下宿まで
ついてきてしまった。「やむをえず」、一週間だけ同棲して別れる話にしたが、運命
は、というよりも現実は、そんな「自由」を許さなかった。房江は沖仲仕の娘で、
「おしゃく」にやられている間に、ちょっとしたことで「前科者」になって、家に
帰っていたのだった。たわむれの恋の夢だけ見てそのまま身を引くような女ではなか
った。
「人生の上に戯曲を書く快感を貪る」(「入信の経路」)彼の心には、あわれな少女
を「社会の偏強な道徳感」から守ってやるという満足と、その底には、傷つきやすい
自尊心をおびやかされることなく何の負担も感ぜずに自分の理想を実演できるという
喜びがあった。トルストイの『復活』を思い出しながら、自分は房江を「許す」こと
で神に近づいていると信じた。房江への感情が恋愛でなくて憐憫であることを確かめ
るために、近所の一〇歳の少女を「ほんとうの恋人」にしたてて登場させた。しかし
一方ではこのひめごとが養家に知れることを恐れて、いつもびくびくしているのだった。









541 :名無しさん@3周年:04/04/10 23:04
 養母は、やがてこのことを知ると、はたして、家名を汚すと激怒して、仕送りを止
めてしまった。それまでは学校の特待生で学費が浮くので、それで二人が暮らしてい
た。いまや房江だけが頼りだった。学校は中退の形になり(一九一四)、しばらく神戸
の房江の家に厄介になったりしながら、むなしく職探しに歩き、ついに何度か死を思う
までに追いつめられた。
 房江は全身で生活にとりくみ、両親の前をつくろって、何とか才覚を働かせていた。
しかし、ついに手がつまって、彼にみつぐために親のものを盗んだりしはじめた。
両親も怒って、房江を台湾に売るといいだした。
 房江としては、もはやかけおちを迫るほかはなかった。だがこのときすでに、生活
の現実にうちのめされた正治のほうでは、手を切ることを望んでいた。ただ、自分から
それを言い出すことをしないだけだった。いまかけおちを迫る房江に対して、彼の答え
は「人生は実力だからもういちど学校に帰りたい」ということだった。そのコトバを聞
くや、房江は「では出世なさいませ、さようなら」と痛烈なコトバを残して(「自伝」)
地獄の方へ走りさった。
「自伝」の筆者は、こうしてうまく厄介ばらいをした自分が卑怯だったことは認める
が、ふしぎにも、反省はそこで止まり、「憐憫愛というようなものは地上の人間を生か
すものではない」という人生訓の発見で、問題を打ち切っている。
 房江と切れたことをみやげに、養母からまた学費をもらって大学に帰ろうと望んだが、
やはり拒絶されてしまった。やむをえず、友人の紹介で大阪の紡績会社の労働者になっ
た。日給五〇銭で一〇時間勤務。つらい生活だったが、ここで堅実な生活を築こうと
努力をはじめた。自分も今ではほとんどプロレタリアなのだが、努力の方向は労働者
の立場からでなく、個人的な昇進に向けられた。せっせと商工学校の夜学に通い、翻訳
の内職をみつけたので、その金で大阪高工に入ろうと試みた。だが、これは成功しなか
った。






542 :名無しさん@3周年:04/04/10 23:05
 ふたたび彼は「官能の世界」に落ちこんでいった。内職で得る金で高尾と呼ぶ遊女の
もとに通い、そのかたわら、お紋(仮名)という上役の姪と関係した。社会を呪いな
がら(「入信の経路」)、こういう不健康な三角関係にこそ特別の「美」がある、と
いうのだった。この場合にも、自分は高尾を憐んでいるのだと思いこむことを忘れな
かった。
 ところが、こんな生活のなかから、まことに彼らしいやり方で、神秘的な病気なおし
への道が開けることになり、これが彼の将来を決定してしまった。
「娼婦は私に病気を感染していたし」、それが上役の姪にうつりはしなかったかと、
心配でたまらなくなった(「入信の経路」)。これは道義上の問題であるとともに、
クビの問題でもあった。医学書をあさったが、かえって病気への恐怖がつのるばかり
で、とうとうひどい神経衰弱になり、眠られぬ夜がつづいた。まぶしくて太陽を見る
こともできなくなった――「これは心の眼を閉じて実相の光を見ないでいる自分の心
の象徴であるということには気がつかなかった」と、彼は「自伝」で注釈している。
 大阪の名高い催眠術家の三好霊峰の治療を受けたが、催眠術にはかからなかった。
ついにびっこを引くまでになって、けっきょく、医者に「手術」をしてもらった。
 自分の病気はなおったようだが、お紋のほうはどうしようもない。そこで、相手に
気づかれないうちに癒してしまうような「神術もがな」というので、心霊療法などを
熱心にあさりはじめた。もちろん、いくら心霊療法を試みても、安心は得られない。
ついに、またもや彼一流の気やすめがはじまる――「よい妙案もないので、私はばい
菌の伝染という思想を否定しだしました」。「こうして一種の哲学の陰にかくれて、
自己の内なる霊の呵責をできるだけ軽減しようとしました」(「入信の経路」)。





543 :名無しさん@3周年:04/04/10 23:06
 不安がこうじて、いよいよたえがたくなったとき、その不安を打ち消す適当な口実
を見つけ出して、自分自身をなっとくさせる。そのためには、伝染の明白な事実を
無視して、伝染というのは思想(考えかた)にすぎないと断定する。自分でそう思い
こむ。ここまで行ければ、奇蹟の宗教をつくることもできるだろう。彼はいま、追い
つめられて神経衰弱になり、これまで何回か見てきたような自己防衛のはたらきがさ
らに一歩を進めて、そういう段階にまで近づいてきたらしい。
 だが、そこへ行くまでに、彼はもういちど労働者の立場に近づく。彼は「女の愛か
ら労働者に対する愛に還って」いった。
 例の病気が一段落したとき、急に明石の工場に転勤になったことが、生活を建てな
おす機会を与えた。高尾は彼の病気のときまごころを見せてくれたので、「憐憫」は
心からの愛に変ったが、そのうちにだんだん離れがちになっていった。そういうとき
に、彼の職場は機械の保全係から現場監督にかわって、一二時間、一週間交代の徹夜
業という殺人的な労働の中に身をおいていた。第一次大戦の初期のことで(一九一
五)、こういう労働強化の上に紡績資本は莫大な利潤をあげていた。中堅幹部たちも、
生産は二の次で個人の利益と保身とに専念していた。ところが、過重労働にあえぐ
少女たちを見かねて、彼が手伝おうとすると、かえって烟たがられた。





544 :名無しさん@3周年:04/04/10 23:09
監督という自分の地位を彼はつくづく反省させられるのだった。「富豪の手先になっ
て労働者を虐め、富の分配をいっそう不公平ならしめつつ、給料をもらう生活!ああ、
何という醜い生活でしょう」(「入信の経路」)。彼は仕事を意識的にサボリ
(「自伝」)、現場の暴露小説を書いて業界紙に投書した。そしてついに、些細なこ
とから工場長と激論して、工場をやめてしまった。
「搾取する監視役」のほかに仕事がないのなら「もう生活しないでもいいのだ」
(「自伝」)。いまや彼は「汚れた社会組織から自由になった」。だが、労働者の
苦しみは彼の行動によって少しでも減りはしない。たたかいは工場のなかでつづいて
いる。
 このとき、つごうよく、高尾は彼から去っていった。お紋は、親にあてて正式に
結婚を申しこんでくれと頼んできた。そのとおりにすると、はたして断られた。
三角関係の相手は、こうして、二人とも自発的に――彼の責任でなく――去っていっ
てくれた。
 房江の場合といい、今度のことといい、「美を味わって」その後始末になると、い
つもこうして自己を保全した。婦人に対する彼のこのような根本的な態度には、表面
上の近代的な飾りつけにもかかわらず、封建的な考えかたが強く現われている。






545 :名無しさん@3周年:04/04/10 23:16
 故谷口教祖は、古代インドの時代のアサンジャであったと高橋信次師は言い残した。                           

 昭和四十八年、国際正法協会会長園頭広周師が信次師の教える正法に帰依して、過
去世が舎利弗であったことを思い出した時、信次師は「園頭さん、あなたは生長の家
の谷口雅春教祖がインドの時のアサンジャであったことを思い出していますね」と突
然告げた。古代インドの釈迦の時代に、舎利弗(園頭広周師)と大日蓮(ニューヨー
ク在住の大谷氏)は、ナーランダで生まれた無二の親友だった。初め二人はナーラン
ダにいたバラモン教主のアサンジャの弟子だった。アサンジャの教えに納得できなか
った舎利弗(舎利子、幼名ウパテッサ、改名シャーリープトラ)は二百数十人の弟子
を引き連れ、大目連(幼名コリータ、改名マーハーモンガラナー)は百数十人の弟子
を引き連れ釈迦に帰依した。二人が釈迦に帰依したことを知ったアサンジャは激怒し
て舎利弗と大目連に破門という処置を下した。二人はアサンジャの非難を甘んじて受
け二人が去った後にアサンジャは血を吐いて亡くなってしまう。このようないきさつ
を信次師は指摘し次のように言った。「園頭さん、あの生長の家の谷口清超という人
は二人目ですね。谷口教祖の一人娘の恵美子という人が最初の結婚に失敗したのはな
ぜか理由を知っていますか。あれは、生長の家をこれ以上大きくしてはならないとい
う天上界からの警告だったのです。それを終戦後、生長の家をこのように大きくした
原因は、園頭さん、あなたの責任だから、谷口さんに手紙を書きなさい」と命じた。


546 :名無しさん@3周年:04/04/10 23:17

 園頭師は次のように言う。               

「清超氏夫人恵美子氏は最初北海道の青年と結婚され、ほどなく離婚になった。
「生長の家」では「夫が悪いのは妻が悪いからである。妻が夫の実相を見ないか
らだ。どんな悪い夫であっても、妻が夫の実相を見れば離婚にはならず、夫婦は
円満になるのである。」と、説いているのであるが、そう説いている教祖の娘が、
夫の実相を見ず、また谷口教祖は自分の娘を擁護して、その婿であった人の批判
を月刊『生長の家』に公表された。この問題があった頃、私はまだ鹿児島の生長
の家の一会員であり、どうも教えていることと実際とは違うという矛盾を感じた
ものであった。終戦直後の混乱で、生長の家がどういう方針を立てていいのか、
まだ迷っていた昭和二十七年、私が谷口教祖に直接手紙を書いて、その中に、
生長の家の大方針はかくの如くすべきである、と書いた。それによって立てられ
た方針が今でもそのまま方針となって生長の家は発展してきたのであるから、高
橋先生はそのように命ぜられたわけである。」、と。   




547 :名無しさん@3周年:04/04/10 23:20
 またある時、信次師は次のように言った。             

「園頭さん、生長の家の谷口雅春教祖の奥さんに憑いているのは古い白狐ですよ。
だから、生長の家が金に汚なくなったのです。伏見稲荷を祭っていますね。あれが
いけなかったのです。生長の家は、古狐が輝子夫人を支配して、輝子夫人の言いな
りに動いている。それで生長の家はだめになったのですよ」                           

 また、園頭広周師は言う。                 

「金を要求する宗教は動物霊に憑依されているとは高橋信次先生が講演の都度言わ
れていた。私が生長の家をやめた理由の一つに、会員には「生長の家大神・住吉大
神」を信ぜよと言っておきながら、自らは「伏見稲荷」を祭っておられた。私が生
長の家を辞める時にこのことを指摘したので、隠しきれなくなって京都の宇治に
「末一稲荷」と称して祭られることになった。」、と。                          

 話は飛ぶが、生長の家の日本教文社発行、J・クレンショー著、訳者谷口清超
『天と地を結ぶ電話』初版昭和三十年がある。同じく『アガシャの霊界通信上下』
初版平成四年・正法出版社園頭広周監修もある。園頭師は昭和三十年にこの本を初
めて読んで、この本に書かれていることは正しいと信じた。昭和四十八年、信次師
が園頭師に「あなたはロスアンゼルスにあるアガシャ教会のことを知っていますね。
あのリチャード・ゼナーを指導したアガシャの指導霊というのは我々の仲間ですよ」
と言った時、園頭師は「それは自分が過去世で学んだものであり、それが正しいと
信じた理由が理解できた。そして、生長の家の教義である〃肉体なし物質なし〃と
〃無限供給の法則〃などが間違っていると知ったのは、この生長の家が出している
『天と地を結ぶ電話』を読んでからであった」と書いている。



548 :名無しさん@3周年:04/04/10 23:23
また、生長の家では「無限の供給がある」と祈れば必ず「無限の供給がある」という
ことを一つの教義としているが、生長の家の教えの欠陥は、「足ることを知ったら安
らかな心」で祈るということを教えていないことにある。だから生長の家の信者が熱
心であるのは、信仰によって心をきれいにするのではなくて、自分の飽くなき欲望を
達成したいということで一生懸命に時間をかけて祈っている人が多いのである。私は
それを「信仰を利用した欲望肥大症」と名付けていた。生長の家が教えている「無限
供給の祈り」というのは間違っているのである。このことは、アガシャが、得られる
べくもないものを、得られるかの如く説く宗教家に注意せよ」と、警告しているのは
そのことである。」、と。こう園頭師は述べているが、生長の家の教義と、生長の家
が出版した『天と地を結ぶ電話』の中で説かれていることが相反すると言うのである。

ttp://www.shoho.com/newpage117.htm




549 :名無しさん@3周年:04/04/14 20:37
谷口雅春著『谷口雅春選集』潮文閣 昭和16年(1941年)発行
皇軍の倫理

 皇軍は国民戦線でもなければ人民戦線でもない。政府軍でもなければ国民軍でも
ない。だから政府が代っても皇軍は微動だもするものではない。皇軍はすめらみこと
の軍である。天皇に直属し天皇の統帥し給うところである。天皇のみことばの進軍が
皇軍である。皇軍の進むところ世界がそのままに実相楽土となって運転するのである。
本来世界に『軍』は一つだけあるべきで、これが宇宙の運転を司っているのである。
だから『軍』は宇宙をあらわす象形たるワ冠の中に車を書き、その『軍』の進むところ
宇宙の経綸がめぐるのであるから、『軍』に『進む』という意味のしんにゅうをかけて
『運』と読む。『軍』の進むところ宇宙の経綸が運(めぐ)るのである。『軍』の進むところ
敵があったり戦争があったりするように思うのは間違である。『軍』のすすむところ天運
が循環し、既にある内在の実相(大調和の世界)が実現するのである。されば宇宙には
すめらみことの軍が唯一つあるべきが本当である。ことばはただ一つ存在する中心に
帰一し、統一せしめられながら進軍するのである。然るに今世界にはすめらみことの
軍でないところの各国の国軍、又は政府軍が存在する。これは似而非(にてひ)なる
軍であって本来は非存在なる仮存在の軍である。かくて仮存在である軍が対立し、軍
が一つではないが故にすめらみことの軍のすすむとき摩擦を生じ軋轢を生ずる。軍
ならざる非存在が軍なるが如き装いをして皇軍に刃向うが故に、軍ならざる者が非存在
なる本来の姿に立帰る。これを敵軍の敗戦といい、敵軍の武装解除という。




550 :名無しさん@3周年:04/04/14 20:38

『軍』は天之御中主大神が伊邪那岐・伊邪那美の大神に宇宙をこれによりて創造生成
(つくりかため)せよとて言依(ことよ)さし給えるときに授け給いし、天瓊矛(あめのぬぼ
こ)の表現である。天地を貫き通す一大鉾であるが故に、天瓊矛というのである。
矛であるから剣の鉾先をもってその象徴とするけれども、これは敵なき剣である。その
矛より滴り落つるところの水火凝(しほこ)りて自凝島(おのころじま)となるのである。
これは国を生み出す天地創造の矛であり、剣であって敵を倒すための矛ではない。
これがすめらみことの軍の本体である。然るに本来あるべからざる軍が、軍の仮面を
装うて、皇軍に刃向う如き有様で出現するから、それが自壊するために一時戦争の姿
が顕れるのである。
 であるから、皇軍の進軍せるあと必ず王道楽土が出現するのである。王道楽土と暫く
支那の言葉をもって表現するけれども、満州の如く、冀東の如く、皇軍が匪賊を掃蕩
せるあとは、必ず、日本なる中心国に帰一せるところの実相楽土が現実に出現するの
である。その国の住民の生活は支那軍閥に蹂躪せられていた時代とは比べ物になら
ないほどに幸福である。その地には軍はただ一つすめらみことの軍即ち皇軍があるば
かりである。皇軍に対立して他の似而非なる国軍や閥軍や政府軍が存在権を主張して
いる限り、やがては光の前にニセ物が消滅するが如く、軍ならざる他の国軍が消滅する
ための自壊過程なる戦争が起るであろう。皇軍がそれを滅ぼすのではない。中心は
一つであり、世界における軍は、すめらみことの軍のみ唯一であるべきであるから、
他はおのずから自壊してしまうのである。




551 :名無しさん@3周年:04/04/14 20:39

 天地に満つる法(のり)の法輪を根本法輪という。根本法輪とは天地に満つるコトバの
広がりが輪状をなして広がり行き、球状宇宙をなし、蓮華蔵世界の形をなすのをいうの
である。その言葉の瓊矛を指しおろして掻き廻し宇宙が一中心に貫かれつつ回転せる
姿が『軍』の字である。世界は、『軍』によって立ち、軍によって運行する。『軍』とは法輪
の転ずる姿である。
 されば勅諭には『我が国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある』と仰せられて
ある。皇軍は政府軍でも軍閥の軍でもない。すめらみことの軍である。世界を治(しろ)
しめし給うところのすめらみことの、み言(ことば)の延長が『軍』である、されば『朕』は
汝等軍人の大元帥なるぞ、されば朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎて
ぞ、その親しみは特に深かるべき』と勅諭に重ねて仰せられてあるのである。皇軍は
天皇の統率したまうところの股肱である。股肱は本体の延長であるから、皇軍は天皇
のみことのりの御延長と観るべきである。しかして天皇は宇宙の主宰神にして同時
に皇祖にましますところの天照大御神より地上統治の全権を委ねられ給いし方であらせ
られるから、地上における天照大御神の代表神位にましますのが、天皇であらせられ
る。その天皇が天照大御神の代表神位として現実世界の統治完成に是非必要なる、
天瓊矛たるが皇軍であるのである。だから勅諭には『夫れ兵馬の大権は、朕が統(す)
ぶる所なれば、其司司をこそ臣下には任すなれ、其大綱は朕親ら之れをとり、肯(あえ)
て臣下に委ぬべきものにあらず』と仰せ給うてあるのである。




552 :名無しさん@3周年:04/04/14 20:41

 天地に満つる法(のり)の法輪を根本法輪という。根本法輪とは天地に満つるコトバの
広がりが輪状をなして広がり行き、球状宇宙をなし、蓮華蔵世界の形をなすのをいうの
である。その言葉の瓊矛を指しおろして掻き廻し宇宙が一中心に貫かれつつ回転せる
姿が『軍』の字である。世界は、『軍』によって立ち、軍によって運行する。『軍』とは法輪
の転ずる姿である。
 されば勅諭には『我が国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある』と仰せられて
ある。皇軍は政府軍でも軍閥の軍でもない。すめらみことの軍である。世界を治(しろ)
しめし給うところのすめらみことの、み言(ことば)の延長が『軍』である、されば『朕』は
汝等軍人の大元帥なるぞ、されば朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎて
ぞ、その親しみは特に深かるべき』と勅諭に重ねて仰せられてあるのである。皇軍は
天皇の統率したまうところの股肱である。股肱は本体の延長であるから、皇軍は天皇
のみことのりの御延長と観るべきである。しかして天皇は宇宙の主宰神にして同時
に皇祖にましますところの天照大御神より地上統治の全権を委ねられ給いし方であらせ
られるから、地上における天照大御神の代表神位にましますのが、天皇であらせられ
る。その天皇が天照大御神の代表神位として現実世界の統治完成に是非必要なる、
天瓊矛たるが皇軍であるのである。だから勅諭には『夫れ兵馬の大権は、朕が統(す)
ぶる所なれば、其司司をこそ臣下には任すなれ、其大綱は朕親ら之れをとり、肯(あえ)
て臣下に委ぬべきものにあらず』と仰せ給うてあるのである。




553 :名無しさん@3周年:04/04/14 20:45
 皇軍は宇宙創造生成化育完成の天瓊矛であるから天地の続く限り永遠に続くもので
ある。宇宙の中心にあって回転している大法輪が『軍』であるから、『軍』が確立しな
ければ宇宙が完全に成り立たぬのである。『軍』は法輪の鳴り立つ姿であり、『軍』の
うえに宇宙が支えられて回転する姿である。他国の軍は、各国相対立するが為に、
競い立ち争い立つための『軍』であるから、他国の『軍』はその軍備が拡張せられるに
従って戦争の危険は増す。しかるに日本の軍はすめらみことの大法輪の発現である
天瓊矛であるから、日本の軍はその軍備が完全になればなるほど、世界の国民は
皇軍の前に敬礼してその行いが正しくなり、悪を行うものが一人もいなくなるのである。
やがて理想世界が出現し、各国の軍備はやがて廃され、各国と各国とを境する国境
はやがてなくなり、世界が一国になって国々の軍を構える時が無くなろうとも、皇軍のみ
はすめらみことの宇宙創造の股肱として、永遠に存在するのである。

 各国の軍隊は互に各国分立対立せる場合、自国を防衛するために存在するのである
から、防衛の必要がなくなれば廃止さるべきであるのは当然であるが、対立なくして自立
している皇軍は永遠の存在である。皇位には皇軍を伴い、皇位のあるところ皇軍が附随す
る。それは股肱であり延長であるからである。だから皇位の存する所に三種の神器は必ず
附随する。三種の神器中の『御剣』は『皇軍』をあらわしたものであって、皇位の存する
ところに必ず『御剣』があり、皇軍がいるのである。皇軍は勅諭に示し給うた通り
『すめらみことの股肱』である。真理に背き神意にもとり、すめらみことの中心に帰順せざ
る一切の迷妄(この迷妄あればこそ世界が不幸に喘いでいるのである)を破壊するとこ
ろの、迷妄破壊の神力の発動である。皇軍あるによって世界は初めて迷妄と真理とを
明快に裁断し得るのである。




554 :名無しさん@3周年:04/04/14 20:49
五 
 草薙の神剣をもって象徴さるる皇軍は未だ嘗て侵略の戦争をしたことがないのであ
る。本来、宇宙にはただ一つ皇軍のみあるべきであって、更に他の軍はないが故に、
大国主命の軍、長膸彦の軍などというが如き軍は仮相軍であって本来存在しない軍で
あるが故に、皇軍の前には何等存在権を云すことが出来ないのである。手引岩を
手端にさげて来るとというほどに勇猛な建御名方神といえども若葦を取りひしぐ如く投
げ討つ事が出来るのが皇軍の威力である。皇軍に向うところ敵なく、若し刃向えば
それは虚妄仮相の姿であるから忽ち撃滅されるのである。
 撃滅するのも、敵国を苦しめるためではない。敵国を大平和裡に幸福に実相楽土
そのままの世界に生活せしめんがためである。皇軍に敗れてその土地の住民が不幸
になった実例は未だ嘗てないのである。台湾でも満州でも青島でも皇軍の威力の及ぶ
ところ、その土地の住民は安寧に幸福に生活し得るのである。若しこれらの土地より
皇軍を退去せしめたならば、現在の楽土は忽ち支那軍閥その他の迷妄仮相の徒の
劫掠するところとなり、地獄が現じ、修羅場が現ずるのである。かくの如く、皇軍は
すめらみことの股肱として中心神位の擁護のための神軍であり、天軍であり、天使で
あるから、未だ嘗て利己的目的に兵を動かしたことはない。
すべて世界平和のために人類の幸福のためにのみ、すめらみことの軍隊は進軍する
のである。しかして皇軍の進軍のあるところ、必ずその後より平和は生れ、その地の住民
は幸福生活を送り得るようになるのである。




555 :名無しさん@3周年:04/04/14 20:53

 かくの如く皇軍は天祖の宇宙創造生成化育の武器たる天瓊矛の顕現であり、創世
(はじめ)にコトバありのコトバの進軍であり、宇宙根本の大法輪の顕現であり、その大
法輪なるコトバは皇軍に対しては勅諭をもって示されているのである。だから、皇軍は
形の上から見るならば一個々々の将士であり、それが編隊されて部隊となり総隊となり
旅団となり師団となっているけれども、それは形の上のことであって、皇軍の内容は畏
くもすめらみことの勅諭であるのである。勅諭にはすめらみことの大御心が充ち満ちて
いて、その勅諭のミコトバ、ミコトノリ、ミココロが皇軍の本質であるのである。その大御
心、大御敕の表現が皇軍として表現されているのである。だから皇軍軍人は召集され
て陸海兵役に服するとき勅諭を謹録せる軍隊手帳を身につけるのは、勅諭を自分の
腹の中に入れることであり、外形は一個の人間であるが、内容は勅諭の心となり勅諭
と一体になって生きるのである。だから陸海軍人はすめらみことのミコトノリの延長とし
て世界平和宇宙創造生成化育のことを言依させられし、すめらみことの股肱となり
天軍となり、神軍となり、天使となり、天瓊矛として世界秩序完成のために働くのであ
る。だから皇軍の行動は列国の賞嘆するが如く、謹厳であって、他国の軍隊に往々あ
るが如き掠奪を行うなどのことは決してないのである。神定の天軍としてただ世界の
平和と幸福とのために奉仕するのである。




556 :名無しさん@3周年:04/04/14 20:58
 かくの如く皇軍は、形は軍隊であり、その内容は勅諭であるが、その表示は軍旗をも
って代表せられる。軍旗は、ここにすめらみことの軍隊ありの表示としてすめらみことより
親授遊ばさるるのであるから、軍旗は神旗であり天皇の軍すなわち天皇の大神敕
(おおみことのり)の延長として、皇軍の将士自体に対しても、また対外的にも臨むので
ある。だから、軍旗の進むところ、天皇の大御敕の進軍であり、大真理の進軍であり
大法輪の進軍である。だから皇軍の将士は軍旗の前に肉体の生命を捨てることを鴻毛
の軽きに比するのは当然である。大真理の大御敕に融合することによって個我を没し
去るのである。大法輪、大生命に召されて行くことによって個生命を没し去るのである。
だから応召将士を送る時にも『万歳!』である。軍旗の前に個生命を捨てる時にも
『万歳!』である。凱旋して帰来する将士を歓迎する時にも『万歳!』である。『万歳』
とは『久遠の生命』ということである。『久遠の生命』とは天皇の大御敕であり、大真理で
あり、大生命であり、大法輪である――この大なる真理と一つになっているとき、肉体
は死するも生くるも共に万歳なのである。

 皇軍の本質は宇宙創造の天瓊矛であり、その表示は軍旗を以って代表せられるが、
ひとりひとりの軍人はすめらみことの股肱である。股肱であるが故に一糸乱れざるとこ
ろの軍旗の下に活動するのである。軍紀は軍のノリである。何故軍にノリがあるかと
いうと、軍はすめらみことの大法輪であり、法はそれ自体に法(のり)であるから、軍
はそれ自体の中に紀(のり)を蔵するのである。皇軍の軍紀は他律的に権力者より
隷属者に押し付けられたる規則ではない。他国の軍隊の軍紀は権力者が統制の便宜
のために隷属者に押し付けた規則であるが皇軍の軍紀はそれとは全く異るのである。




557 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:03
一人一人の軍人に勅諭の示し給う如く畏くもすめらみことの股肱であるが故に決して
隷属者ではないのである。軍人が上官に絶対服従するのは上官に隷属するからでは
ない。圧迫による隷属ならば必ずや反発が生ずるのであるが、軍人は上官の命令
(コトバ)の中に、すめらみことのミコトバを視、みずからもすめらみことの股肱たる軍人
として自律的にどこまでも絶対にそれに服従せずにはいられないのである。ここに
皇軍の軍紀に絶対服従が徹底的に行われ、決して何らの反動を視ず何らの反発を
も見ないのである。『上官の命を承わること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ』と
勅諭に仰せ給いしは決して規則を押し付けられる意味で仰せ給うたのではなく、皇軍の
本質上、軍人はすめらみことの股肱であり、宇宙の創化の大法輪を形成するところの
一つ一つの法輪であるが故に、その自然の本質として自律的にみずから進んで上官
に服従することを明瞭に大神敕の上に表現し給うたのであると拝し奉るべきである。

 世界に軍は一つあるのが世界の理想形態であり、その唯一つの軍とは皇軍であり、
その唯一つの軍に統一せられずして各国互いに軍を擁して対抗している限り永久平和
の世界は来らず、永久幸福の人類世界は来らないのは当然のことである。およそ、
大は太陽系統から、小は物質分子の電子構造に至るまで、その中心は一つであること
によってのみ完全に統制がとれているのである。人間にも動物にも頭首は一つであり、
樹木の幹も一つである。地球上だけに頭首たるべき主権者が複数にあるのは、世界
秩序がまだ本物になっていないからである。だから世界秩序は現在の状態が次第に
崩壊して、世界はただ全世界一軍の理想に近付いて来るに相違ないのである。




558 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:07
全世界一軍の理想に近付くといっても、決して外国が自発的にその軍備を撤廃して、
ただ皇軍ひとつに世界の大法輪の中心統制を委すということにはまだ中々ならない
であろうから、ここに皇軍の威力を示さねばならぬ時期が来るのである。皇軍は威
力を示すといっても平和を楽しむその土地の住民に威嚇をあたえるのではない。皇
軍にまさる軍なきことを他の虚妄仮相の各国対立の軍に知らしめて、ついに軍とい
っては世界に『皇軍』のみあれば他に軍隊の必要なきことを知らしむるに到らしめ、
延いては地球上にただ一つの頭首があるべき宇宙理想に基いて一君万民の宇宙の実
相を実現せしむるに至らしめる働きが、この皇軍の使命であるのである。世界には
ただ皇軍のみが真の唯一の軍であり、他の軍隊は悉く虚妄仮相の似而非なる軍なる
ことをここに繰返して置く。


戦争の倫理的意義

 私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在
の生活』を百パーセント完全に生きることが、生長の家の生き方であるといった。
この意味において『戦争』というものが吾々に課せられた場合には(現に課せられ
ているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければなら
ないのである。今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働く
のであるから、戦争というものは魂の修養にならないというような価値判断が作用
(はたら)いて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれがあるが、生長の家で
は出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を
練るところの公案となるのである。




559 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:14
 多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理
解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応
なしに左右をいわずに、ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事
なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈でなしに実証するところの行事であ
る。かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したところの
『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じこ
とである。『爆弾を抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人
はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。宗教の修行においては、たとひ教祖の命
令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で
許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、そのその命令者
が教祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命
が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇(すめらみこと)であって、肉体の放棄
と共に天皇の大御命令(おおみいのち)に帰一するのである。肉体の無と、大生命
への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なの
である。戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程とし
て、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的
行事であるからだと観じられる。




560 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:20
理念(かみのコトバ)の為の戦争のみ神聖戦争である

 利権のための戦争は、利己主義の戦争であるが、理念(かみのコトバ)の為の戦争
は神聖戦争である。物質の人間の食物のためと、物質の国土のために戦うと考える
が如きは、この神聖なる戦争を利己主義の戦争だと思い違わすところの迷妄である
のである。吾々が戦争を是認しても好いのは、そんな利権の問題ではない。肉体な
る仮相の人間の私意を否定して、まっしぐらに天皇(すめらみこと)の御命令(おおみ
いのち)に帰一するところの一つの神聖なる宗教的行事として尊いのである。現象界
の理屈が整然と立ち、戦争に従事するのが利権擁護の為になるから天皇の御命令
に従うというのであれば、現象界の理屈や、利権というものと天皇の御命令とを相対
的に対立せしめ奉ることになって、若しその戦争が現象界の理屈(現象界の理屈は
どうにでも附けられるものであって、日本政府のいう所と、南京政府のいう所と、英国
政府等々のいうところとは必ずしも一致しない。)に合う場合は好いが合わぬ場合が
出て来たり、利権々々といって戦っていても、戦争の伴う犠牲の方が、得られる利権
よりも多いことになったりするならば、畏れ多いことながら、戦争せよと仰せ遊ばされ
る御命令に背き奉っても好いという様な不届者を生ずるようになるかも知れないので
ある。渡辺天華教祖の『この絶壁から跳べ!』という命令ですらも、跳んだらどういう
利権が得られるとか、千仭の絶壁から跳ぶということが現象界の理屈に合うから跳ぶ
というのは、本当の生命は把握せられぬ、現象界の理屈を絶し、利害を絶して、ただ
至上命令に従うというところに、そこに無我の極の極の、至上命令への帰一があり、
個我解脱の歓びがあり、死んでも好いという本当の自覚が出来る――それは形では
死に跳び込むように見えるが、実はより大なる宇宙生命に帰一することであるからで
ある。




561 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:24
「創価学会・立正佼成会 新興宗教の内幕」 三一書房 1979年発行

「生長の家は、戦争中に急成長した。その理由は、軍閥の長老辻村楠造陸軍中将を理
事長の椅子にすえ、天皇制賛美と戦争遂行に奔走するなど、積極的に国策に協力した
ことにある。満州にも進出し、「日の丸の進む所、どのような奥地にも進出していっ
た」とすらいわれたが、敗戦と同時に素早く教義を平和讃美、自由愛好に切りかえて
教勢を維持。その後国家神道復活の動きが激しくなるや、再び天皇崇拝と神道色を濃
厚にして、いまや右派系教団の中心的存在に返り咲いている。」
「まず、生長の家という教団の政治的特質を理解していただかなければならないが、
この教団の最大の特色は、その強烈なタカ派性、右派的思想性にある。靖国神社国営
化推進運動の中心的役割を担っていることは、すでに述べた通りである。生長の家は、
戦争遂行に協力した反省から戦後一時、平和、自由の賛美に方向転換した。アメリカ
で発達した精神分析、心身医学等を、積極的に教義にとりいれたりもした。しかし、
占領末期になると、朝鮮戦争の勃発を契機に、政治の反動化の波にのって再び、天皇
崇拝と国家主義を復活し、神道色を濃くしていった。さらに、一九六〇年の安保問題
を境にして、国家主義的傾向をますます露骨にしてきたのである。」



562 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:30
「現代日本の宗教問題」 朝日選書 1979年発行
<生長の家>
 一九三〇(昭和五)年、大本教から分れた谷口雅春が開教した。既成の宗教思想、
観念論哲学、フロイト主義などを折衷したシンクレティズムの宗教で、出版物を
大々的に発行して誌友(信者)を獲得した。その教義は、宇宙を「生命の実相」で
あるとし、徹底した精神主義による内面の不安と現実の諸矛盾の解消を説いた。生長
の家の近代的なスタイルは、ファシズム下の知識層、棒給生活者層を広範にひきつけ、
谷口は天皇中心主義を鼓吹して戦争に協力した。敗戦後は戦争中の露骨な戦争讃美
を平和礼賛に切り換え人生苦の克服をよびかけた。朝鮮戦争勃発後、政治の反動化が
進むとともに、反共、天皇崇拝、排外的民族主義に立つ活発な運動を展開し、神道的
右翼的色彩を強くした。




563 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:37
「教祖」佐木秋夫  青木書店 1955年発行
 中国への侵略と太平洋戦争のあいだ、生長の家の戦争協力はいちじるしく、そのた
めに谷口は戦後追放を受ける。彼は『古事記』講義などで日本の国体こそ「実相の世
界の顕現」で最高完全の組織であり、この国家が拡がることは実相の顕現がひろがる
ことにほかならず、「軍の進むところ宇宙の経綸が廻る」と論じて、「念波」の一斉
祈願で敵軍を圧迫するための光明念波連盟を結成したりした。どの教団でも戦争協力
がはげしかったが、なかでも谷口は最もファッショ的な『国体の本義』の天皇絶対化
がてぬるいといって文部大臣に公開状を送ったり、「戦費無限循環法」と称して軍事
紙幣の発行を建策したりした。インフレと共に生長していく生長の家では、いつもこ
の積極的インフレ支持論を唱えている。
 女性の髪型にまで干渉を加えながら、その「大和撫子」を家庭から引き出して職場
動員しなければならない――そういう時に「花嫁学校」がはやったが、彼もいち早く
「家庭光明寮」を設けた。
 大陸進出も顕著で、満州光明思想普及会というものができてきた。満鉄社員などの
あいだにかなりひろがっていた一燈園は、なかなか熱っぽいがいささか消極的だとい
って、生長の家を歓迎する面もあり、大連あたりで、一〇〇〇人もの聴講者を集めた
という。谷口自身、大陸に二回の講演旅行をやっている(一九四二、四四)。
 工場への積極的な進出ぶりは特に注目しなければならない。中小経営のばあいが多
いが「ふしぎに能率があがり、病気欠勤が減り、消耗品やオシャカが減り、工員が移
動しない」などの効能があげられる。東京の日清紡では各室に『生長の家』誌を備え
て効果をあげたという。その効果とは何を意味するか。「非常時に労働争議を停止せ
しめ、反戦思想を抑圧」するのに「最も効果のあるのは光明思想である」(『生長の
家』一九三七・一〇、巻頭)。




564 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:45
「教祖」佐木秋夫  青木書店 1955年発行
戦後の“民主化”から 
――逆コースをさらに通って「社会主義へ?」――
 戦争の末期には、あれほど協力した生長の家も、用紙がとまり労働者をとられて、
一時は会社を日本興農社と変えて開拓などをやらなければならなかった。
 敗戦後、会社は日本教文社として再出発(一九四六)、生長の家もはじめて法的に
既成宗教と平等の宗教団体(宗教法人「生長の家教団」)となった。谷口は追放に
なったが、ひとり娘の恵美子の二度目の婿に心理学科出身の荒地清超を迎えて教主と
し、形を整えた。雅春は教祖で、表面上は教団や会社の運営の外にあるが、「ワン・
マン独走」を自認している。著述や講演にきわめて多忙で、酒・煙草もとらず、活動
的な毎日を送っている。
 敗戦の秋に、彼は「今や自由をえたり」と宣言し(『生長の家』四五・一一)、
「生長の家の教ほど平和愛好の教はない」のに、政府や軍の「用いるところとならず
して」敗戦を迎えてしまった。国民として戦争への「協力は当然」だが、行きすぎの
あったのは「仮面愛国者の恫喝を防ぐため、やむなく」やったことだ、と弁明した
(同一二)。追放になると(一九四八)、アメリカからハードマン博士というのをま
ねいて全国各地で講演をやらせた(一九四九)。この博士は二世などの追放解除請求
署名を多数あつめてもってきた。『甘露の法雨』の英訳をお守りにして助かった二世
などがいたのだという。しかし、解除工作は成功しなかった。
 逆コースがはじまると、再軍備には「戸締り論」で賛成し、天皇の護持を強調し、
水爆問題では、反対の社会活動も結構だが、長崎では信者が奇跡的に助かった、など
といって、その政治的認識は、保守的傾向の中・小経営者にありがちのタイプを示し
てきた。それが最近は、社会主義や共産主義について理解を示すかのようなコトバも
しきりになってきた。しかし、それは理解というよりも、ごく初歩的な無理解あるい
は曲解というに近い。



565 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:49
「現代の新興宗教」戸川猪佐武 株式会社太陽 1976年発行
十二年(一九三七)に、日華事変が勃発 して、日本が軍国主義時代に突入したあと
――たいていの宗教団体もその存続をはかるた めに、カーキ色を帯びはじめたが、
谷口はより果敢、積極的だった。 「軍の進むところ、宇宙の経綸が廻る」といい、
念波の一斉祈願で敵軍を圧倒するとも称し、光明念波連盟を結成した。さらに、
「“国体の本義”(文部省発行、国民教化の本)は、天皇の絶対化が生ぬるい」と、
文相に公開状を送った。  天理教に負けじとばかり、大陸にも進出、満州光明思想
普及会をつくり、谷口みずからも二度ほど、講演におもむいた。
「非常時に労働争議を停止させ、反戦思想を抑圧するのに、光明思想は最も効果的」
と、 「生長の家」(十七年十月号)で論ずるほど―谷口の思想は激烈に右に寄った。
 政界進出と愛国主義の旗印
 二十年(一九四五)八月、敗戦の衝撃はどの宗教団体にとっても、大衝撃であった。
平和と自由、民主主義への転換、対応に、苦慮しなければならなかった。谷口は、その
十一月に、「いまや自由を得た。生長の家ほど、平和愛好の教えはない」と宣言した。
 しかし、ここで見逃せないことは、これを機会として、谷口の言動に、二点の特色が
現われてくることである。
 一つは、他の宗教団体にさきがけて、政界進出を発想し、その実践のスタートを切
った ことである。
 もう一つは、それが歴然となるまでには、多少の時間を必要とするが、自由、民主
主義、 あるいは社会、共産主義などの戦後思潮に対して、日本主義、愛国主義の
“居直り”姿勢 をみせたことである。




566 :名無しさん@3周年:04/04/14 21:52
「黒い宗教 その実態と悪の構図」石井岩重 AA出版株式会社1984年発行
ここで私がいいたいのは、谷口の一貫して変わらない体制順応主義、権力への迎合
ぶりである。昭和12年に日華事変が勃発して、日本が軍国主義時代に突入して行っ
たあとほとんどの宗教団体はその存続をはかるために、カーキ色を帯びはじめたが、
谷口はより急進的だった。国家が広がることは“実相”がひろがることで、「軍の
進むところ宇宙の経綸が廻る」と“念波”の一斉祈願で敵軍を圧迫するため、「光
明念波連盟」を結成し、天皇絶対化の度合が手ぬるいと文部大臣に公開状を送り、
谷口自身、満州を講演旅行して歩いた (「生長の家」『中公』二十九年十月号)。
「非常時に労働争議を停止させ、反戦思想を抑圧する」のに「最も効果のあるのは
光明思想である」(「生長の家」十七年十月号)と、 いやはや大変なタカ派ぶりで
ある。それはそれでかまわないし、ファシストなどというつもりはない。ところが、
である。敗戦後の谷口の態度はどう変わったか。「今や自由を得た。生長の家ほど、
平和愛好の教えはない」とこうだ。この臆面のなさはどうだ。恥ずかしくないので
あろうか。そして、それまでの国家主義的な色彩を極力払しょくし、急激にキリス
ト教的なものを強くうちだしている。それにもかかわらず、戦後しばらくして、追
放組が解除されて権力の座にカムバックするようになると、とたんにまた、日本主義、
愛国主義、反共主義をうちだしたのだ。このような節操のない人物をはたして信用し
ていいものだろうか。私が「生長の家」に対して抱く不信感は、以上のようなことに
強く裏打ちされている。





567 :名無しさん@3周年:04/04/14 22:02
週刊文春1985年7月4日号
 生長の家といえば、公称信者数三百万人を擁する新興宗教の雄だが、その創立者・
谷口雅春総裁が、このほど亡くなった。享年九十一の大往生である。
大正六年に大本教に入信。機関誌の編集にあたったが、大正十一年大本教を去った。
昭和四年、「物質はない、実相はある」との神示を受け、翌年個人雑誌「生長の家」
を創刊。人生苦の解決と病気快癒の体験で評判になり、多数の読者を獲得した。
昭和十年ごろには朝日新聞の第一面に大々的に広告を打ったので、年配の方なら、
ご記憶のムキもあるかも知れない。戦時中は天皇中心主義、軍国主義を鼓吹して信者
を増やしたが、終戦後は一転して自由と平和を唱える。講和後は再び右傾化。帝国
憲法への復帰、国家神道の復活、堕胎禁止を訴えた。戦後の右翼運動に、谷口氏は
精神的な支柱になったようで、山口二矢青年も、谷口氏の著作を読んでいた。
また三島由紀夫にも影響を与え、三島と共に市ヶ谷の自衛隊に突入した「楯の会」
の古賀、小賀の両青年は、生長の家の信者だった。さて、この谷口雅春氏をどう評価
するか。また生長の家の今後の路線は?「あの人は文学青年でしたから、初期の
ころの著作は大変ロマンチックで文章もうまかった。文学青年の段階でとまっていれ
ば評価できるんですが、その後ウルトラ国家主義路線を打ち出して来た。過激な右翼
青年を輩出した危険で有害な人だと思います。そういう路線は、私が考える本来の
宗教とはなじまない。普遍性を持ち得ないから民族宗教にとどまり、世界宗教たり
得ない。大きな路線変更はないと思いますが、教勢拡大のためには、ウルトラ国家
主義では布教しにくいので、やや手直しをするのではないでしょうか」
(宗教評論家・梅原正紀氏)




568 :名無しさん@3周年:04/04/14 22:05
週刊文春1985年7月4日号
「終戦直後は社会党支持だった。考え方がくるくる変わるのが生長の家です。大宅壮一
が生長の家をデパート宗教と評しましたけど、仏教でもない、神道でもない、
キリスト教でもない。晩年は神道です。思想的にも左右にゆれる人なんですよ。
『君子は豹変する』と自分でも言っていますし。宗教界における清水幾太郎でしょう」
(宗教ジャーナリスト・清水雅人氏)
元「生長の家」幹部で現在は正法会という宗教法人の会長の園頭広周氏の見方は、
手きびしい。「だいたい、生長の家の教義はあいまいなんです。『生命の実相』のは
じめに『神殿はいらない』と書いてあるのに、宇治、長崎に神殿を作りました。
『賽銭の多寡によって人間が救われる、救われない、ということはない』とも書いて
あるのに、賽銭の多寡で評価が変わってるし、本を何冊売ったかで変わる。
私はそういう点を追及したんですが、意見を言う者はみんな辞めさせられたんです。
茶坊主が側近で機嫌をとってるんです。そういう連中の意見が組織を動かしている
のが現状です」



569 :名無しさん@3周年:04/04/14 22:08
<事件後、王仁三郎が小山昇弁護士にたずねている。「お前、今度の大本事件の
意義はわかっているか」「一向、わかりません。実につまらぬ目にあわされたも
のでございますね」「そうじゃない。大事な神の経綸なのじゃ。この大本は、今
度の戦争にぜんぜん関係がなかったという証拠を神がお残し下さったのじゃ。戦
争の時には戦争に協力し、平和の時には平和を説くというような矛盾した宗教団
体では、世界平和の礎(いしずえ)にはならん。しかし、日本が戦争している時
に、日本の土地に生まれた者が戦争に協力せぬでは、国家も社会も承知せぬ。そ
れでは世界恒久平和という神の目的がつぶれますから、戦争に協力できぬ処へお
引き上げになったのが、今度の大本事件の一番大きな意義だ。これは大事なこと
だよ」>(『出口なお・王仁三郎の予言・確言』出口和明著・光書房)



570 :名無しさん@3周年:04/04/14 22:17
出口王仁三郎
「その方(谷口雅春)は霊界物語の筆写までやつたぢやないか。直接の教示を受けながら、
分からぬとはさても困つた盲だな。駄目だ。二つ目には研究研究と口癖のやうに申す
が、お前のいふ研究は犬に灸だ。ワンワン吠え猛るばかりが能だ
お前は霊界の消息を洩らしたる仏教に対し尊敬帰依の心を捨て、なまじひに研究などと
申してかかるから、何にもつかめないのだ。霊界の幽遠微妙なる真理が、物質界の法則を
基礎として幾万年研究するとも解決のつく道理がない。しばらく理智を捨て、意志を専ら
として研究すれば、神の愛、仏の善、および信と真との光明がさして来るのだ。仏教がつ
まらないなどと感ずるのは、いはゆるお前の精神がつまらないからだ。仏の清きお姿がお
前の曇つた鏡に映らないからだ
人間の分際として仏の御精神を理解しようとするのが間違ひだ。仏は慈悲そのものだ、
至仁至愛の意味が分れば一切の経文が分つたのだ」


浅野和三郎
「あれ(谷口雅春)はわたしのもとの弟子だが、逆用したわけだね。民衆を迷わすという
ことです。やっているのは、般若経だろうがなんだろうがけっこうなものだという一つの
暗示によって左右されれば、それで統一ができてきますから治りますよ。なんでもいいの
だ。気合いをかけるのも同じだ。私には通知せず、こそこそやっている」





571 :名無しさん@3周年:04/04/14 22:18
今井楳軒
「谷口には一時二柱の守護神の外に六柱、都合八柱の神々が守護し給うていたが、今日で
は既に一柱の守護神も見受けられない。今や神人は彼谷口の邪心と浅間しい野望に愛想を
つかしたのだ」

佐藤勝身
「先生(谷口雅春)は驚くべき言行不一致だ。乱離骨灰、それでいてなんら恥じるところ
がない」

五井昌久
「生長の家の教えのような過ちを、皆さんは二度としてはいけない!」






572 :名無しさん@3周年:04/04/14 22:28
週刊現代1985年7月6日号
新興宗教「生長の家」の創設者、谷口雅春総裁が亡くなった。九十一歳という高齢であっ
た。長崎県西彼町の同教団総本山をたずねてみると、祭務部幹部が涙まじりに、「私たち
は、もうみんなふぬけです。総裁先生が亡くなられたことで虚脱状態、信徒は生きる気力
すら失った感じなのです。いったい、これから先、生長の家はどうなるのでしょう。
真っ暗ですよ……」と語っていた。
村上重良氏は「宗教者、教祖として多くの強味をもっていた谷口さんだが、弱点もたしか
にあった。とくに晩年は自分の理想どおりにいかなかったのではないか。
 彼は文学青年から宗教に入った人、明治のロマンチシズムが底流にはある。天皇絶対の
明治憲法を美化して考えていたが、これなど戦後の日本文化の流れとは明らかにズレてい
ますね。教団の幹部との間でも、少しずつズレが生じてきた気もする。明治憲法の美化で
は、いかにも古色蒼然ですからね」
また小野泰博氏も、「谷口さんは神道中心のナショナリズムが強い人だった。宗教家とし
て一人ひとりの心を立て直そう、世の中を変えていくためには政治家を作り出さねばダメ
だ、と彼が“世直しと政治”を密接に結びつけて考えたのも事実です。果たしてこの考え
が彼自身の理想どおりにいったかどうか。結果はノウでしょう」
政治路線でいえば、靖国神社護持をふくむウルトラタカ派的な志向である。
果たして今後はどうなのか。宗教評論家梅原正紀氏は、早くも「生長の家」の変化を予測
している。
「谷口氏個人の主義主張はともかく、教団としては政治的なウルトラタカ派路線は軌道修
正されるでしょう。憲法改正をいうと信者が伸びないとなれば、信者獲得のためにタカの
ツメを切らねばならないことも考えられますから。生長の家政治連盟も二年前に解散状態
なのです。」





573 :名無しさん@3周年:04/04/14 22:28
週刊現代1985年7月6日号
 谷口雅春氏亡きあと「生長の家」にどんな変化が起きるのだろうか。次期総裁には雅春
・輝子夫妻の娘ムコ、谷口清超氏が既に決定している。輝子未亡人はさしずめゴッドマザ
ー的存在である。ちなみに輝子さんは大正九年、大本教の出版局長、今井楳軒氏の媒酌に
よって雅春氏と結婚した人。もちろん当時は大本教の信者だった女性だ。
 宗教ジャーナリスト清水雅人氏が予想する――。
「清超氏は初代が生存中から教団の実務、運営を担っていたのだから、いますぐにお家
騒動のような紛争にはならないだろうが、心配なのは雅春氏には強烈なカリスマ性があっ
たことですね。カリスマ性まで二代目が“代役”できるかとなると、それはできない。
これまでの運営でも生長の家では白鳩会の力が絶大だった。白鳩会の実務は清超氏がやっ
てきたのだが、実は初代夫妻の娘、恵美子さんが実権をもっている。つまり背後にいる
ゴッドマザー輝子さん=恵美子さんと連る“女権教団”の色彩がつよいのです」
さらに元教団幹部で現在は「正法会」会長園頭広周氏はこうまでいうのだ。
「生長の家は教義で祭壇はいらない、お賽銭もいらないとしているが、大本殿建築で献
金にランクはつけたし、立教の原点からみて疑問や矛盾をかかえているのです。
矛盾に気づいて脱会する信者もかなりの数にのぼっている。つい最近も鹿児島の信者に
“反乱”があったし、本部への反感はいまなおくすぶり続けています。宗教産業に堕して
いるという批判ですね」





574 :名無しさん@3周年:04/04/14 22:30
週刊ポスト昭和五十六年九月二十五日号
●宗教法人とは何か!六大教団の真意を問う直撃アンケート

Q解散する際、財産処分はどのようにして行なうのか

○創価学会
役員会を開いて、その議決にまかせることになります
○天理教
すべて国に帰属する、というふうに決まっています
○立正佼成会
決まった処分方法はありません。ですからその場合は、裁判所に処分をまかせること
になります
○PL教団
すべて会員に帰属することになっており、その処分方法は役員を交えた理事会で決議
します
○生長の家
すべて国に帰属することになっています
○霊友会
考えてません。そもそも解散なんて考えたことがありません






575 :名無しさん@3周年:04/04/15 02:22
Q教主は一日何時間、宗教活動を行なうのか

○創価学会
睡眠、食事といったプライベートな時間を省いた、ほとんどの時間を宗教活動に費や
しています
○天理教
食事をしたり、リラックスしたり、という時間を省いたほとんどの時間を宗教活動に
費やしています
○立正佼成会
会長の一挙手一投足が、宗教活動ですからね、宗教抜きの時間なんて考えられません。
たとえば、ゴルフの時でも説教しながら回っているんです。二十四時間すべてが、宗
教活動です
○PL教団
二十四時間奉仕する、という自覚に立って活動しています
○生長の家
総裁先生の存在そのものが、宗教活動ですから、二十四時間です。総裁先生が、どこ
かで見ているのではないか、という気持ちが、すべての信者を正しい方へと、絶えず
導いているのですから一分一秒の休みもなく宗教活動をしてることになります
○霊友会
久保継成会長が、おっしゃるには十二時間ぐらいとのことです





576 :名無しさん@3周年:04/04/15 02:23
Qなぜ教主は、無報酬ではないのか、また報酬の額はいくらか

○創価学会
専従役員として学会の業務に携わっているからです。金額に関しては、特にお答えし
ていません
○天理教
いわゆる報酬というものはありません。ただ、地方の教会で講演した際に教会から出
される“御礼”(謝礼)で生活をしています。金額に関してはわかりません
○立正佼成会
霞を食って生きているわけじゃないんですからね、報酬は当然でしょう。また、報酬
の額ですが、そこまで協力する義務もないと思いますね
○PL教団
無報酬では食っていけないでしょう。昔なら托鉢で生活できたでしょうが、今の世の
中では無理です。また、金額は平均的生活にみあう程度です
○生長の家
わたしどもの総裁先生は無報酬です。先生は本をたくさんお書きですから、その印税
で生活されています
○霊友会
同じく会長がおっしゃるには、もらわないと生活ができない、とのことです。また、
金額は月額八十五万円です





577 :名無しさん@3周年:04/04/15 02:24
Q宗教者も生活を考えるべきだと思うか

○創価学会
そもそも信仰と生活は密接なもの。切り離して考えられるものではありません。信心
即生活です
○天理教
考える必要はないと思います。天理教の教えには「貧に落ちきれ」という言葉もある
くらいです。また、生活のことに心を裂かれていたのでは十分な活動もできません
○立正佼成会
宗教者といえど、子どもの教育も地域との付き合いもある。生活を考えて当然でしょ
う。生活を考えないで、やっていける方法があるなら教えてもらいたいですよ。
○PL教団
昔と今とでは、時代が違いますからね、考えて当然だと思います。托鉢ではやってい
けませんよ。
○生長の家
日本人の大半が中流意識を持っているといわれる現在、そういう人達にも理解できる
宗教でないと意味ないと思います。それには生活を考えたうえでの布教が当然です
○霊友会
会長は、考えるべきだ、といっています





578 :名無しさん@3周年:04/04/15 02:33
Q教主は、信者を救うために、財産・身分をなげうつこともあるか

○創価学会
信者を蘇生させるためには、信仰の次元において最大の努力をつくしたい、と考えて
います
○天理教
事と次第によってはありえます。しかし、大切なことは、誠真実の教えを説くことです
○立正佼成会
会長は、人類のために、すでにすべてをなげうっています
○PL教団
教団を作る時点で、信者のためにすべてを捧げてあります
○生長の家
そもそも総裁先生は、個人財産を全く持っていませんから……。ただ、お体は日本国
民のためにすでになげうっています
○霊友会
会長がおっしゃるには、ありません、とのことです





579 :名無しさん@3周年:04/04/15 02:37
Q宗教とは何か

○創価学会
生命の尊厳に基づいて、全体平和の確立を説いているものです
○天理教
よふき(陽気の意)ぐらしを目標とし、誠真実の教えに従い生きていくことです
○立正佼成会
物の見方を、自己中心から相手中心に変えることです。そして、全体のために
なることであれば、小我を捨てて行動する。みんなのために働くということです
○PL教団
神に因ったあり方を、教祖の悟りに基づいて教義教理として関与しているもの
○生長の家
人間は神の子であるという理解を深めることです
○霊友会
会長がおっしゃるには、自己変革、とのことです





580 :名無しさん@3周年:04/04/15 02:40
『宗教悪をくじく』 昭和十二年三月二日発行  野依秀市
「生長の家」の人間観批判
  
我が「浄土眞宗」において「罪悪深の重凡夫」とか、「小慈小悲もなき身」とかい
うのがいけないというのである。
 『「生命の実相」の解説』の中には
 『「生長の家」は人類を讃嘆し讃美するために生れたのです。今の世界にはあまりに
人類を侮辱する言葉が多すぎる。新聞を見ると人殺しや、夫婦喧嘩や泥棒の記事は大袈
裟に出ていて、親孝行をしたというようなことは小さく出ている。夫婦仲が好いなどと
いうことは少しも出ていない。善い事は言葉に現わさないで、悪いことばかり大袈裟に
書いてある。――これは言葉の力で人類を暗黒化しようという働きも同然であります。
この人類暗黒化運動に反抗して決然起ったのが『生長の家』の人類光明化運動なのです』
 と言っている。
 これは一応もっともなことであって、新聞が兎角善いことよりも悪いことの方を余計
に掲げる傾向のあるのは事実である。
 人間には、善いことをするのは当然である、悪いことをするのは好ましくない、とい
う心理があるので、それがやがて新聞の上にも現われるのであって、一面からいえば、
それはそういう悪い真似をしたくない、こういう悪いこともあるということを知って、
注意するようになると考えられる。したがって、それは人間のありのままの姿を書いた
のであって、何も人類を侮辱するものではない。
 しかるにこれを「言葉の力で人類を暗黒化しようという働きも同然であります」とい
っているのは、実に思わざるの甚だしきものである。
 こうした社会の実相を知らせなければ、それに対する対策も考えられないか
ら、夫婦喧嘩や人殺しや泥棒などという好ましからぬ記事が出るのも無意義なことでは
ない。





581 :名無しさん@3周年:04/04/15 02:42
 衛生思想が発達して社会から病気を少くし、人類の寿命を長くするというのも、ここ
に黴菌がいる、こういうものを食ってはならぬ、ということを知らせればこそ衛生思想
が普及し、人類の保健が保たれるのではないか。
 こういう意味からいって、人間の悪い方面は言わずに、善い方面ばかりをいうことは
不具であって、それでは人間の真実の姿を知らせることは出来ないことになる。人間を
改善することも不可能になってくる。
「生長の家」がこういう方面のことを非難して「人類暗黒化運動に反抗して決然起った
のが『生長の家』の人類光明化運動なのです」といっているのは全く見当違いであって、
それは単に独りよがりに過ぎないものである。
この「罪悪深重の凡夫」ということは偽らざる人間の事実である。もとより一面におい
ては人間如何にも麗しい心持になる時もあるけれども、その反面においては実に見苦し
く親にも兄弟にも妻女にも言われないような恥ずかしい心持の起る時もありはしない
か。私にはしばしばそうした心持が起って来る。勿論親鸞聖人にもあったのである。
 道徳心の低い時にはそうした自己の醜い姿、罪悪というものに気がつかないが、
道徳心がだんだん向上して来るにしたがって、道徳の標準が違って来るから、自己の
浅ましい心、醜い姿というものが自然に分って来るわけである。そうすると、なるほ
ど自分は「罪悪深重の凡夫」であったということに思わず知らず気づくのである。
 たとえていうならば、百万円の財産を目標として働いている者が、千円や二千円
儲けたのでは殆ど問題にならぬ。それも二十代から百万円を志望して、その時既に
千円、二千円という儲けた金があるのならば、まだ先も長いし、これからだという
気持にもなろうが、その百万円の志望者が五十歳、六十歳、七十歳になって一万か
二万の金を儲けたのではいうに足らないから、金持ちになったような気持はしない。




582 :名無しさん@3周年:04/04/15 02:54
 それと同じように、道徳心の低いものは自分の罪悪に気がつかない。浅ましい姿が
分らない。そういうものに向って「罪悪深重の凡夫」などというと、一体自分の何処
が悪いのか、親鸞聖人はやたらに火宅無常の世界だとか、凡夫の迷心だとか、小慈小
悲もなき身とか余計なことをいったものだ、という気が起って来るものである。
 私もかつて信仰に入る前にはそういう気持が起ったことがある。いやに悲観たらし
く「火宅無常の世界」などということが癪に触ってならなかった時代もあったが、信仰
に入って後に反省して見ると、なるほど罪悪深重の凡夫であるということがつくづく
感じられた。
 そして又、地獄行の凡夫であるなぞ言われたりすると、地獄なんかあってたまるも
んかと思った時代もあったが、真に自己の罪悪がわかるようになると、地獄があると
かないとかそんな馬鹿なことが言えるものか、それよりも、自分自身が地獄へ行かねば
ならぬ人間ではないかということが分って来るのである。そこには、もう地獄の有無
なんか問題にならぬのである。
 我々の罪悪感、我々の信仰ぶりを「生長の家」の谷口氏はどう思われるであろうか。
もう一度考え直してもらいたいものだと思う。





583 :名無しさん@3周年:04/04/15 02:58
生長の家批判 危険な天皇への帰一 松田勝承 S54年3月発行 
私の論駁の対象は、天皇制、神格化した天皇であり、天皇個人ではないということ、
従って、三島由紀夫氏のいうような理念としての天皇、あるいは政治に関与する天皇
には断固として反対するが、他の宗教と同じ資格に於ける「天皇教」の廃止を主張す
るものではない。
 「お母様!!
 愈々私達女性も、学徒看護隊として出動出来ますことを、心から喜んで居ります。
お母様も喜んで下さい。
 私は、『皇国は……』の信念に燃え、生き伸びて来ました。軍部と協力して働くの
は、何時の日かと待って居りました。愈々それが私達に報いられたのです。何と私達
は幸福でしよう。大君に帰一し奉るに当って、私達はもっともいい機会を与えられま
した。今働かねば何時働きますか。しっかりやる心算で居ります。」
 これは、一ひめゆり学徒の遺書であるが、ここに、<大君に帰一し奉る>とあるよ
うに、彼女らにとっての本尊は天皇であった。
 私は、ひめゆりの学徒らが自分達の理想、主義、主張のために身命を投げうったそ
のこと自体を責める気はない。むしろ一種の敬意を表せざるにはおれない。問題は、
身命を賭すべき対象、すなわち本尊が何であるかということである。昔の武士のよう
に忠義のため、あるいは名誉、恥のため命を投げるか。あるいは正義、真理のため命
を投げるか、おのおの身命を投ずる対象によって、その結果は異なってくる。
 仏教には本尊を治罰するという言葉がある。日蓮はこのことについて次のように述
べている。





584 :名無しさん@3周年:04/04/15 03:02
 「蘇悉地経に云く、『本尊を治罰すること、鬼魁を治するが如し』等云云。文の心
は、経文の如く所願を成ぜんが為に、数年が間法を修行するに成就せざれば、本尊を
或は縛り、或は打ちなんどせよと説かれて候。相応和尚の不動明王を縛りけるは、
此の経文を見たりけるか。此は他事には似るべからず。日本国の一切の善人は、或は
戒を持ち、或は布施を行じ、或は父母等の孝養のために寺塔を建立し、或は成仏得道
の為に妻子を養ふべき財を止めて、諸僧に供養をなし候に、諸僧謗法の者たる故に、
謀反の者を知らずして宿したるが如く、不幸の者に契りをなせるが如く、今生には災
難を招き、後生も悪道に堕ち候べきを扶けんとする身なり。而るを日本国の守護の善
神等彼等に興して、正法の敵となる故に、此を責むるは経文の如し道理に任せたり。」
(諌暁八幡抄)
 命を与えるということほど最高の奉仕はない。そのことは、日蓮、キリスト等の聖
人が口をそろえて言っている。今次大戦に於て、沖縄は、天皇のためにといって、約
三分の一の尊き命を犠牲にしている。しかるにその結果はどうか。大田昌秀氏が「醜
い日本人」でのべているように、あたかも幸徳秋水の予言の如くである。故に、沖縄
にとって、本尊を治罰するとは、本尊としての天皇を治罰するということにほかなら
ない。
 生長の家総裁谷口雅春は、戦時中の軍国主義への協力を反省することなく、むしろ
A級戦犯であったことを誇るが如く、天皇の御本質についてと題し、次のように説いて
いる。「天皇への帰一の道すなわち忠なり、忠は天皇より出でて天皇に帰るなり。天
皇は一なり。ハジメなり。一切のもの天皇より流れ出て天皇に帰るなり。わが『忠』、
わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと云ひて、『我』を鼻にかける『忠』はニセモ
ノなり。私なきが『忠』なり。





585 :名無しさん@3周年:04/04/15 03:09
 天皇は天照大御神と一体なり。天照大御神は、天之御中主神と一体なり。斯くして
天皇はすべての渾てにまします。『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より
発して再び天之御中主神に復帰するなり。天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが『忠』
なり。わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我』となるなり。……
 わたくしの『生命』を愛護する勿れ。『生命』が尊きは天皇の大御いのちの流れで
あり、岐れであるが故に尊きなり。寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべ
からず。『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道の迷妄の徒と
なるなり。」
 以上の言葉を繰返し、繰返し朗読し黙読し、朗読し黙読せられよ。必ずインスピレ
ーション的に愛国心が涌き出て、日本精神が泉み出で、日本に生を受けたありがたさ
がわかって来るにちがいないのである。(続占領憲法下の日本)
 この言葉が、一老人の懐古趣味より出たのであればたいして問題はない。問題は、
三島由紀夫氏に代表されるこのような反動思想の持主が現在の日本にもまだ少なくな
いという事実である。歴史は繰返す。その元凶を根絶しない限り。
 天皇とは何か。天照大御神とは何か。日蓮仏教はこの問題にどう答えるか。
世間では、田中智学等の軍部の追従者の歪曲解釈のために、誤解されている傾向があ
るが、日蓮は決して天皇追従者ではなかった。
 日蓮にとって、天皇、あるいは天照大神とは、寿量の仏に従うべき存在であり。
天照大神は日本という小国の守護神であり、天皇は印度、中国等の王と同じく日本とい
う国の一王にすぎない。神国王御書には次のようにある。
 「仏と申すは三界の国主たる大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・
諸王の師なり、主なり、親なり、三界の諸王は皆此の釈迦仏より分ち給ひいて、諸国
の総領別等の主となし給へり。」
 「神と申すは又国国の国主等の崩去し給へるを生身の如くあがめ給ふ。これ又国王
国人の為の父母なり、主君なり、師匠なり。」





586 :名無しさん@3周年:04/04/15 03:16
 また、日眼女造立釈迦仏供養の事には次のように書いている。
 「――天照大神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば教主釈尊は天の一
月、諸仏菩薩等は万水に浮べる影なり。」
 従って、天照大神・八幡大菩薩等の諸天善神は、日本国を、そして法華経の行者を
守護すべき義務があり、天皇は人民をよく統治し、守るべき義務がある。(ただし
人王は百代にかぎられる)故に、これに反すれば治罰が加えられるのである。このこ
とについて、日蓮はさらに次のように述べている。
 「日蓮天に向って声を挙げて申さぐ、法華経の序品を拝見し奉れば、梵釈と日月と
四天と竜王と阿修羅と二界八番の衆と無量の国土の諸人と、集会し給ひたりし時、
已今当に第一の説を聞きし時、我とも雪山童子の如く身を供養し、薬王菩薩の如く臂
をも焼かんと思ひしに、教主釈尊・多宝・十方の諸仏の御前にして、『今仏前に於
て自ら誓言を説け』諌暁し給ひしかば、幸に順風を得て、『世尊の勅の如く当に具に
奉行すべし』と、二処三会の衆一同に大音声を放ちて、誓ひ給ひしは如何があるべき。』
(神国王御書)
 「或る経の中に、『仏此の世界と他方の世界との梵・釈・日月・四天・竜神等を集
めて、我が正像末の持戒破戒無戒等の弟子等を、第六天の魔王・悪鬼神等が、人王人
民の身に入りて悩乱せんを、見ながら聞きならが治罰せずして須更も過すならば、必ず
梵釈等の使をして、四天王に仰せ付けて治罰を加ふべし。若し氏神治罰を加えずば、
梵釈・四天王も守護神に治罰を加ふべし。
 梵釈又かくの如し。梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし。若し
然らずば、三世の諸仏の出世に漏れ、永く梵釈等の位を失ひいて、無限大城に沈むべし』
と、釈迦・多宝・十方の諸仏の御前にして、起請を書き置かれたり。今之を安ずるに、
日本小国の王となり神となり給ふは、小乗には三賢の菩薩、大乗には十信、法華には
名字。五品には菩薩なり。何なる氏神ありて無尽の功徳を修すとも、法華経の名字を
聞かず、一念三千の観法を守護せずんば、退位の菩薩と成りて、永く無間大城に沈み
候べし。」(諌暁八幡抄)





587 :名無しさん@3周年:04/04/15 03:24
 従って、いにしえの約束に反し、我々を守護しない場合には、天皇、八幡大菩薩、
天照大神であろうとも責めてさしつかえない。日蓮はそのことを実行している。
 「さて十二日の夜、武蔵守殿の御預りにて、夜半に及んで頸を切らんとす。鎌倉を
出でしに、若宮の小路に打ち出で、四方に兵者打包みてありしかども、日蓮云く、
各々騒がせ給ふな、別の事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて、馬より
さし下りて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か、和気清麿が頸を刎ね
られんとせし時は、長一丈の月と顕はれさせ給ひ、伝教大師の法華経を講じさせ給ひ
し時は、紫の袈裟を御布施に授けさせ給ひき。今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。
其の上身に一分の過ちなし、日本国の一切衆生の法華経を謗して、無間大城に堕つべ
きを助けんが為に申す法門なり。又大蒙古国より此の国を責むるならば、天照太神・
正八幡とても安穏におはすべきか。其の上釈迦仏法華経を説き給ひしかば、多宝仏十
方の諸仏菩薩集まりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とを並べたるが如く
なりし時、無量の諸天竝びに天笠・漢土・日本国等の善神聖人集まりたりし時、各々
法華経の行者に疎略なるまじき由の誓状まいらせよと責められしかば、一一に御誓状
を立てられしぞかし。さるにては日蓮が申すまでもなし。急ぎ急ぎこそ誓状の宿願を
遂げさせ給ふべきに、何に此の処には落ち合せ給はぬぞと高高と申す。
 さて最後には日蓮の今夜頸切られて霊山浄土へ参りてあらん時は、まず天照太神・
正八幡こそ起請を用ひぬ神にて候ひけれど、さしきりて教主釈尊に申上げ候はんずる
ぞ、痛しとおぼさば急ぎ急ぎ御計らひあるべしとてまた馬に乗りぬ。」
(種種御振舞御書)
 天照太神等の諸天善神、ならびに天皇は、われわれを守護せんがためにあるといえ
ば、それでは天皇制の存在を認めているのではないかと思われるかも知れない。しか
し、日蓮は天皇による国の統治は百代に限られるとし、現代に於ける天皇制を否定し
ている。





588 :名無しさん@3周年:04/04/15 03:32
 「国主をたづぬれば、神世十二代は天神七代地神五代なり、天神七代の第一は国常
立尊乃至・第七代は伊装諾尊男なり、伊装冊尊妻なり、地神五代の第一は天照太神、
伊勢太神宮日の神是なりいざなぎいざなみの御女なり、乃至第五は彦波歛武顱鷲草葦
不合尊・此の神は第四のひこほの御子なり、母は竜の女なり。已上地神五代・已上十
二代は神世なり、人王は大体百代なるべきか」(神国王御書)
 第百代の天皇とは一三九二年に即位された後小松天皇である。従って天皇制は後小
松天皇で終るべきであった。何故なら百代以後は諸天善神の守護が及ばないからであ
る。
 また百代の王でも諸天善神の守護は正直の王、よき政治を行なう王に限られる。
 「平城天皇の御宇に、八幡大菩薩の御託宣に云く、『我はこれ日本の鎮守八幡大菩
薩なり。百王を守護せん誓願あり』等云云。今云く、人王八十一・二代隠岐の法王、
三・四・五の諸王已に破られ畢んぬ。残んの二十余代も今捨て畢んぬ。已に此の願破
るるが如し。日蓮料簡して云く、百王を守護せんといふは、正直の王百人を守護せん
と誓ひ給ふ、八幡の御誓願に云く、『正直の人の頂を以て栖と為し、詔曲の人の心を
以て亭とせず』等云云。」(諌暁八幡抄)
 一三九二年といえば、末法に入っている。日蓮は末法の世について次のように述べ
ている。
 「末代の有様を仏の説かせ給ひて候には、濁世には聖人も居し難し。大火の中の石
の如し。且らくはこらふるやうなれども終には焼け摧けて灰となる、賢人も五常は口
に説いて、身には振舞い難しと見えて候ぞ。」(四条抄)
 「常さまには世末になり候へば聖人賢人も皆隠れ、只讒人侫人和讒曲理の者のみこ
そ国には充満すべしと見えて候へば水少くなれば池さわがしく、風吹けば大海静かな
らず、代末になり候へば早魃疫癘大雨大風吹き重なり候へば、広き心も狭くなり、道
心ある人も邪見になるとこそ見えて候へ。されば他人はさて置きぬ、父母と夫妻と兄
弟と諍ふこと、猟師と鹿と猫と鼠と鷹と雉との如しと見えて候。」(兵衛志殿御書)






589 :名無しさん@3周年:04/04/15 03:46
 生長の家の谷口雅春のような天皇を戦前のように、国家の元首にもってゆこうとす
る時代錯誤的考えは、天皇を敬うといえどもかえって天皇を亡ぼす結果になるといえ
る。何故ならもし谷口雅春の主張するように、明治憲法を復活させるならば、日本は
再び軍国主義の道を歩み、亡国は必定となるからである。そして天皇は、隠岐の法王
あるいは安徳天皇のような運命を余儀なくされることになろう。そのこと妙法の明鏡
に照らし疑いない。
 国民の多くを、中でも沖縄においては県民の約三分の一を犠牲にし、また再び同じ
道を繰り返そうとするならば、寿量の仏これを許さず、日本の守護神天照太神、八幡
大菩薩もろとも天皇に天誅を加えるでろう。
 「今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して、天火に焼かれ給ひぬるか。例せば秦
の始皇の先祖襄王と申せし王、神となりて始皇等を守護し給ひし程に、秦の始皇大慢
をなして三皇五帝の墳典を焼き、三聖の孝経等を失ひしかば、沛公と申す人、剣をも
て大蛇を切り死しぬ、秦公の氏神是なり。
 其の後秦代程なく亡び候ひぬ。此も亦斯の如し、安芸国巌島の大明神は平家の氏神
なり。平家を驕らせし失口、伊勢太神宮。八幡等に神打ちに打失はれて、其の後平家
程なく亡び候ひぬ」(諌暁八幡抄)
 従って、天皇に現憲法で規定されている以上の権利を与えてはならないことは明白
である。
 またそのことは、自民党反動勢力にもいえよう。すなはち、戦前、戦中の日本軍国
主義の犯した誤りを反省することなく、日本国憲法をおしつけ憲法といい、憲法改悪、
軍国主義復活という道を歩むならば、あたかも秦の始皇帝の大慢を恕り、沛公という
人が始皇の氏神である大蛇を切り殺したように、憂国の士は黙っていないであろう。
もし憂国の士これをなさねば、寿量の仏外国の士に申しつけ、そのことを果たさせる
であろう。





590 :名無しさん@3周年:04/04/15 03:54
 「梵釈等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えず
ば梵釈・四天等も守護神治罰を加うべし梵釈又かくのごとし、」(諌暁八幡抄) 
 日本の天皇は谷口雅春が主張するように、絶対的では決してない。日蓮はこのこと
について、次のように述べている。
 「八幡大菩薩は応神天王・小国の王なり、阿闍世王は摩竭大国の大王なり、天と人
と王と民との勝劣なり、而れども阿闍世王・猶釈迦仏に敵をなして悪瘡身に付き給い
ぬ、八幡大菩薩いかでか其の科を脱るべき、去ぬる文永十一年に大蒙古よりよせて日
本国の兵を多くほろぼすのみならず八幡の宮殿すでにやかれぬ、其の時何ぞ彼の国の
兵を罰し給はざるや、まさに知るべし彼の国の大王は此の国の神に勝れたる事あきら
けし。」(諌暁八幡抄)
 まさに、大二次世界大戦の結果はこの言葉どおりなっている。
 ああ、仏眼恐るべし、真に平和を望むならば妙法に帰依し、謗法を責むべし。その
ことがもっとも平和への近道であることは明瞭である。
 沖縄の人達が、久米島で起ったスパイ容疑による虐殺事件の犯人と思われる鹿山氏をす
るどく責めているが、しかし最も責めらるべきは鹿山氏をあのような残虐行為に走らせ
た戦争の元凶帝国主義であり、これに便乗させられた皇民化思想ではないか。極悪人
はほかにいる。あくなき搾取で巨万の富をなし、金のためなら何でもやりかねない資本
家、死の商人達、明治憲法を復活させ、再軍備をもくろみ、皇民化思想の普及に奔走し
ている谷口雅春等の反動思想家達である。鹿山氏はその枝葉にすぎない。見方によって
は戦争犠牲者ともいえる。従って、戦争を本当に拒絶したければ、謗法の者を責め、源
を絶つべしである。






591 :名無しさん@3周年:04/04/15 04:06
 生長の家が沖縄問題について、どのように考えているかごらんにいれよう。
 「―ところが沖縄は、実際に日本がアメリカに対して宣戦布告をしハワイの真珠湾
に先制攻撃を加え、アメリカに非常な損害を与えて、ついに日本は敗れた結果、戦勝国
なるアメリカが東洋の安定を得る必要なる拠点として、日本に領土の潜在主権をみとめ
ながら、必要なる期間、施政権をもっているというだけであって、アメリカは日本が戦
争中に彼に与えたる損害に対して賠償金ひとつ要求しないで、旧敵国に対して寛容にも
ガリオア資金という名で食糧を供給し、エロア資金という名で産業復興資金を貸してく
れたので、その結果、日本人の一千万人は餓死するはずであったのが死を免れ、経済復
興めざましてく、神武景気、天之岩戸景気、イザナミ景気、昭和元禄と、なかばその繁
栄の弊害を自嘲するような掛け声まできかれるほどに復興して来たのである。」(谷口
雅春著「占領憲法下の日本」)
 この沖縄不在の本土エゴイズムまるだしの言葉には天照太神、八幡大菩薩すら目をそ
むけざるを得ないであろう。何故なら八幡の御誓願に「正直の人の頂を以て栖と為し、
詔曲の人の心を以て亭ず」とあるからである。これらの言葉を平気でなす人を詔曲の心
の人といわずして、どこに心詔曲の人があろうか。
 更に谷口雅春は、沖縄はなぜ祖国復帰を願うかと題し、次のように述べる。
 「『戦争がどんなにあっても祖国がほしい、国家がほしい』というのが民族感情なの
である。沖縄県民たちは大東亜戦争で、日本国家の一部であったが故に、艦砲射撃や、
空爆や、火焔放射器などの攻撃を受け、地形が変更し、山野がことごとく坊主になるほ
どいためつけられ、幾十万という同胞がそのために戦死したのであるけれども、そのよ
うな被害を受けつつも『日本という祖国国家があったのでこの被害を受けたのだから、
もう国家はいらぬ』などという沖縄県民はひとりもいないのであって、日本国家に復帰
することを無上の願いとしているのである。国家を求める民族感情は『個人の利害』を
越えた深い民族の魂の底から発する叫びなのである。」(続占領憲法下の日本)






592 :名無しさん@3周年:04/04/15 04:11
 ここに、いわゆる沖縄の心を知らない典型がある。沖縄県民が望んだのは日本国憲法
下への復帰であって、天皇制国家、明治憲法下への復帰ではない。谷口雅春は、再び沖
縄の青少年にひめゆりの学徒らと同じ遺書を書かせるつもりなのか。沖縄の復帰運動の
理念は基本的人権の回復、反戦平和にある。明治憲法を復活させ、再び絶対的天皇制国
家にでもなれば、これらが実現できるとでもいうのか。何が人間神の子だ、何が人間仏
の子だ。
 見よ、骨肉あいはむ凄惨な渡嘉敷島の集団自決を。見よ、久米島における悲惨なスパ
イ容疑処刑事件を。見よ、今尚、天を見あげ、戦犯をのろうている白骨(シャレコーベ)
を。思え、あとかたもなく消え去った貴重な文化財を。ああ、筆舌につくし難いこの惨
禍、これでもなお皇軍を復活させるつもりか。
 まさに第六天の魔王谷口雅春の身に入りて善師を悪師となす。「毒気侵入失本心故」
「悪鬼入其身」とはこのことか。
 三島由紀夫氏は、谷口雅春著「占領憲法下の日本」に<本書に寄せる>という一文を
書き、次のように述べている。
 「つい先頃も、『生長の家』の信仰を抱く二三の学生が私の自衛隊入隊の群に加はっ
たので、親しく接する機会を得た。かれらは皆、明るく、真摯で、正直で、人柄がよく、
しかも闘志にみちみちた、現代稀に見る好青年ばかりであった。
 そして、『もし日本に共産革命が起きたら、君らはどうする?』という私の問に、
『そのときは僕らは生きてゐません』といふ、最もいさぎよい、もっともさわやかな言
葉が帰ってきた。これだけの覚悟を持ち、しかもかういふ明るさを持った青年たちはど
うして生れたのだろうか、と私は愕いた。現代の汚れた常識人は、そんな青年は物語り
の中にしかゐる筈がないと笑ふであろう。又、敗戦後に生れた現代青年が、無視し、あ
るいは避けてとほる天皇の問題についても、この人たちは、素直な、実に自然な受容の
態度を示してゐた。天皇は日本民族の存立と自立の自明の前提として理解されていた。」






593 :名無しさん@3周年:04/04/15 04:12
 戦争によって崩壊したはずの絶対的天皇主義は、それに変わるべき有力な思想の不在と
いう戦後の状況も手伝って、二〇前後の思想的に空白状態の純粋な青年達に影響を与えて
いる。物質文明に毒された現在の状況にあきたらず、精神の充足を求め、マルクス主義、
あるいは創価学会へと走る。そしてこれらへ進むことの出来ない多感な青年達が久坂や
高杉、竜馬等の維新の志士の至情、熱血にひかれ右翼へと走ることは、理解できないこ
とではない。しかし吉田松陰や坂本竜馬等の考えていたことは、腐敗した保守勢力である
幕府を倒し、新しい日本を築こうということにほかならなかった。それは、当時でいえば
明らかに革新的な考えである。
 あの時代には尊王倒幕は正しかったかも知れない。しかし現在、天皇中心国家を唱うる
は歴史の逆行をこころみようとするものであり、反動のそしりを免れないであろう。
 我々の究極の目標は、仏教で教える四徳波羅密の実現にある。四徳波羅密とは次の四つ
の願望をいう。
 一、常波羅密―常住不滅の生命を欣求する。
 二、楽波羅密―無苦安楽の生命を欣求する。
 三、我波羅密―自主自由の立場を欣求する。
 四、浄波羅密―清浄平安の楽土を欣求する。
 天皇中心の国家でもって、これらの四つの目標が実現できるであろうか。歴史が示して
いるように答は否である。これらの理想を実現できる方法は、末法濁悪という現代の世で
はただ一つ、すなわち全ての人のもっている妙法蓮華経、すなわち第九識すなわち慈悲、
智慧、尊厳を開出することのできる仏教の三大秘法である。絶対的天皇主義にはこのよう
な方法、哲理はない。従って不可能である。





594 :名無しさん@3周年:04/04/15 04:34
乙です。

595 :名無しさん@3周年:04/04/17 12:34
そなでれぇムズカシこと言わんでも
「ありがとうございまーす」さえ唱えていればイイですよ。
それが楽だもんで、全て丸くおさまりますですよ。合掌

596 :名無しさん@3周年:04/04/17 20:09
まぁ、>>595まで達観できれば、南無阿弥陀仏といっしょで
無害っちゃー無害だけどね

597 :名無しさん@3周年:04/04/17 21:52
だだ、感謝の言葉を冒涜してるとこが許せないが奈。

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