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恐縮ですが、生長の家なるものは 2

1 :名無しさん@3周年:04/04/24 22:46
初代スレが残りがもうないので立てます。
生長の家関連の資料をどうぞ

どのような団体なのでしょうか?
サイトを拝見しましたが理解には至りませんでした。
信仰の是非ではなく、どのような団体なのか
ご存じの方がおみえになりましたら宜しくお願いします。

初代:恐縮ですが、生長の家なるものは
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1031217586/l50

2 :Gocc (Get Mocc) ◆HswindowsI :04/04/24 22:46
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3 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:17
         ◇心の法則は危険◇    「神と人間 P38」(白光真宏会出版局)

「人間の世界は、思う通りになる世界である」という念の法則、「悪を想えば悪を生じ、善を想えば善を生ず」
という心の法則を、人を責め裁くことにのみ使っている人々が、宗教や修養をやっている人たちに非常に多数ある。

私は、これは非常に困ったことだ、と思うのである。幽界や霊界においては、その想念は直ちに現れ、その念は、
すぐに自分自身に返ってくるので、どういう念が、どういうふうに自分に返るかが体験としてわかるのであるが、
それでさえも、なかなかその業因縁の念を消すことができがたいのである。まして、非常に粗い波の体を持つ肉体
世界の人間の、しかも、その人間と相手の間にある業因縁の種類さえも知らず、ただ単に一般論の心の法則だけを
利用して、指導しようとすることは実に危険なことであって、かえって相手の進化を妨げ、浄化を乱すことになるのである。


4 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:18
       ◇心の法則の欠陥例◇   「神と人間 P46」

想うことは必ず現れる。この法則を知っただけでも、知らぬ人よりは進歩が早く運命改善ができやすいが、これを逆に応用し、
反対に考えると、かえってその人自身や人を傷つけ、痛めてしまう。想ったことは必ず為れる。この言葉を真剣に考えている人で、
「自分は恐怖心が非常に強い。自分のように恐れる心の多い者は、この心の法則の通り、必ず恐れる事態が起こるに違いない。
恐れることはみな来るのだ」とその法則を知ったことが、かえって仇となって、日夜恐れつづけている人がある。

また或る人は、他人のために常に真剣になって心配苦労し、そのためいつも貧乏している人に向かって、「あなたは貧乏したい心
があるから、いつも貧乏しているのですよ。富む心を起こしなさい。あなたが貧しい心があるから、貧しい人ばかり側に寄ってく
るのですよ」と説教した。このため、この人は善事をなすことに対して、大きな疑いを抱き、それ以来、愛行が乱れていった。

これらの例に見られるように、心の法則(因縁)だけ思ったり、説いたりすると、実に間違った逆効果になりやすい。「あの人は、
あんな心を持っていたから、あんなになったんだ」式に、なんでも悪く現れいる場合は、その人の心にその悪い原因があるんだと、
決めつけられたり、決めつけたりしていたら、まことに愛も情もない人生になってしまう。法則を知ったために、人を傷つけたり、
自分を痛めたりするのは、神の本性を知らない、無知から起こるのである。


5 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:22
          ◇心の法則では救われない◇  「宗教問答 P22」(白光真宏会出版)

「現象はすべて心の影」という心の法則論は、昔から言われている因縁因果のことで、業(カルマ)の流転のことです。
それを新しい言葉で、実相論に並べて現象論として説いたところが生長の家なので、これはどう言おうと、これ以上に説く
ことも、変えることも、生長の家としては、今ではできなくなっているのです。「これだけでは、到底真実の救いに入ること
が出来ない」と私は思ったのです。これでは、入門二三年は、実相論で心がクルリと変わって、ちょっとした救われに入る人
があるでしょうが、年が経ってゆくうちに、頭の鋭い人や良心的な人なら、この教団の教えや、教団の講師諸氏の教えと実生活
(実際行動)との差異の甚だしさがわかってきたり、教えの中の矛盾に突き当たったりして、悩んできますし、頭のあまり秀で
ぬ人たちは、偽善的な生活に気づかず、「人間神の子円満完全」と、自己の魂の在り場所も知らずに、他人の欠点を裁いたりして
得意になっているでしょう。

この事は、私が講師として生長の家教団にいて、はっきり確認し、自己も味わった生活であるのですから、間違いありません。
神様は私にわかりやすく、行じやすい真理を説かせるために、各教団の勉強をさせたものなのです。そこで今度は、私が神様から
説くことを命ぜられている教えの説明を、改めて致しましょう。(中略) 生長の家と私の教えとの相違点を一言にしていえば、
生長の家は、最初に頭ごなしに、「人間の実相は、完全円満で、悪も不幸も無い。肉体も物質も無い。だから病気も無い」という
素晴らしい真理の言葉で、読者や信者に喝をくわせて、この現象界を問題にせぬ立派な態度を見せながら、今度は現象に現れた不幸
や病気を、因縁因果説、心の法則に落としてきて、「あなたの心が間違っているから、そうした不幸や病気が現れるのだ」とその人々
の心の迷いのなせる業(わざ)だ、と改めて、人間の悪や迷い、つまり業をはっきりと認めている二元論なのです。 

6 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:22
初めの一二年は、法華経(実相論)の喝の効き目で病気が治り、家庭が調和したりするのですが、しばらくたって、その教えの矛盾、
つまり「完全円満の実相人間から、どうして迷いの多い人間が出来てきたのであろう」ということに気づき始め、時折、現れた実相が、
次第に現象の心の分析の影に隠れてしまって、「人間は本来完全円満である」という真理を知っていることが、かえって自己を責め裁く、
という反対現象を起こしてくるのです。それは、実相と現象をつなぐ梯子がないのに、現象の迷妄の中に喘ぐ人々に、「実相はここだ、
昇って来い」と高い理念の世界から呼びかけてくるので、「いち早くそこ迄昇ろう」と焦り悶えて、現象の自己の力弱さ、低さを嘆き哀しむか、
あるいは自己を欺瞞してしまうかしてしまうのです。

私はそこに「守護霊、守護神」という梯子をかけ、実相と現象を一本につなぎ、一元的にして、「現象無し」というところを、
「病気も不幸も悪想念も、すべて過去世からの誤った想念行為の消えてゆく姿。消えてゆくに従って、人間の本心(実相)が現れてくるの
だ」と分析の代わりに、「消える」という言葉で、業生(カルマ)の幕を開いてゆくのです。こうすると、虚勢を張らぬ裸のままで、
素直に自分を赦し、人を赦して、伸びやかなおおらかな生活が出来てくるのです。要するに、迷いの想念を分析的に使わず、
一直線に守護霊、守護神、直霊(本心)の方に、感謝全託の想念として、振りかえてしまわせる教えなのです。ですから私の教えには、
「私が悪い」も「あなたが悪い」も無く、「悪いものはすべて、過去世からの業(因縁因果)の消えてゆく姿」となり、「在るものは、
法華経や華厳経の説く、光明燦然たる実相身、み仏ばかり」ということになるのであって、そうした本質の世界が次第に現れてくること
になるのであります。

7 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:24
◇心の法則は一切いらない◇  「天命を信じて人事を尽くせ P50」(白光真宏会出版)

「人間は神の子なんだ.光明燦然としているもんだ。悪は無いんだ」なんて言ったらば、「お前の心は悪い。心の影だよ」
なんて心の法則は、一切いらないんです。それがあったら、人間は神の子でなくなって、悪魔の子に下がってゆくのですよ。
生長の家ばかりではありません。どの宗教もそうです。「お前は神の子なんだ。光明燦然としているんだ」と教えていながら、
「お前が悪い」と言うんです「お前が悪い」というのは、一切いらないんです。「お前が悪く見えるのも、私が悪く見えるのも、
すべてみんな過去世の因縁が現れ消えてゆく姿で、その人その人は悪くないんだ」という観方をしませんと、本当の人間世界は
幸福になりません。


8 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:29
         ◇心の法則は人を責め裁く◇  「私に荷物を預けなさい P62」(白光真宏会出版)

「この世は想いの世界だから、あなたの思う通りの世界が出てくるんだ。あなたが、これはできると思えば、
できるんだ。できないと思うから、できないんだ」「お前さんの中に、痛む心があるから、痛むのだ」「お前
さんの中に貧乏な心があるから、貧乏になるんだ」とこうやる。これは生長の家ばかりではありません。
他の教団も、「あなたの因縁ですよ」とやっています。これは始末に困るのです。たとえば、病気になる。
そうすると、「私の心のどこが悪いのかしら? 私のこの病気の原因はどこだろう?」と探り始める。

私ならば、「病気が現れたら消えてゆく姿だ、これで良くなるんだ」とやるでしょう。さっぱりしますね。
それを、消えてゆこうとする想いを追いかけて、原因を追求しようとするのです。「私はどうして肺病になったのかしら?
私、狭い心があったのかしら?」とやる。まだ自分を追いかけているうちは、いいんだ。今度は人をやっつけることになるのです。
「人間は神の子」になかなかなりにくい。そこで心の法則のほうを取るのです。


9 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:32
         ◇悪が無いなら心の法則も無いはず◇  「私に荷物を預けなさい P112」

生長の家は、実に言葉巧みにやっているけれども、本当に突き詰めてゆくと、おかしなものが出来上がってくる。
完全円満だったら、悪は無いんだったら、心の法則も無いんです。「お前が思うから、こうなる」というのも無いんです。
そういうのは、みんな消えてゆく姿。あるものは神の子だけ。あるものは、大神様だけ。

今までは知識的、学問的宗教があったけれど、また原始にかえって、古代にかえって、ただ直線的に、「神様!」っ
て神様の中に入ってゆく生き方が一番いいです。「神様」だけでやれる人は、「神様」だけでいいんですよ。「守護霊守護神」
でいい人は、「守護霊守護神」でいい。「五井先生」でいい人は、「五井先生」でいい。なんでもいいです。なんでもいいけれど、
想いを神様の中へ入れてしまうということ。想いが上へ入って行っちゃう。そうすると、上から下へスッと光が突き抜けます。
天地がつながります。

         ◇心の法則の欠陥例 恐れるものはみな来る◇ 「明るい心 P152」(白光真宏会出版)

「恐れるものはみな来る」という心の法則があるんですね。精神科学(メンタルサイエンス)です.「おまえが恐れるから、
恐れるものが来るんだ」 「おまえが病気を恐れるから、病気するんだ」「あんた臆病だから、そうなるんだ」と言われたら
、気の弱い人はますます臆病になってくる。「あっ、私はまた恐れた!また何か来やしないか? また恐れた!
 また何か来やしないか?・・・」とあべこべになっちゃった。本当は「この人を良くしてやろう」と思って言っているんだけど、
智慧が足りないばっかりに、気の弱い人をおぴやかすものだから、ますます気が弱くなっちゃって、「自分は駄目、自分は駄目」
と小さくなってしまう。


10 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:34
         ◇思念の力で平和はできない◇  「天命を信じて人事を尽くせ P198」

 生長の家では、世界平和思念連盟というのを作って、世界平和を祈るのだというのですが、生長の家の機関紙に書いてあることは、
思念の力、想いの力を利用して、世界平和を祈るんだ、と書いてある。想いの力、思念の力というのは、力むことですよ。
「世界人類が平和、世界人類が…」って力むんですね。力んだことは届かないのです。その人の力より出ないのです。
その人の想いの力というのには限度がある。いくらも上がっていかない。人間が平和を望む想いより、悪魔の想い、
業想念のほうが強いです。「世界平和、世界平和…」と想いの力を一所懸命こらしたとしても、そんなのは神様に届きません。
それは思念の力といって、間違いなのです。思念の力では、世界平和に絶対にならない。

業想念で力んで、「世界人類が平和で、世界人類が平和で…」とやるんじゃないんですよ。ふんわりと世界人類の平和の祈りの中に、
自分の業想念を持っていってしまう。そうすると、ピューツと消えて光になってしまう。光の中に入って溶けちゃうんだからね。

業の想いで、いくら「世界人類の平和…」なんて言ったって駄目なのですよ。私の教えというのは、そんなのじゃない。
「息張れ!」と言うんじゃないです。息張って「世界人類が平和で…」 
「消えてゆく、消えてゆく…」なんてそんなのじゃないですよ。「消えてゆく!」なんて頑張るんじゃないです。
それを間違えている人があるけどね。消えてゆくのは、勝手に消えてゆくんですよ。こっちが「消えてゆく、消えてゆく」
なんて言わなくたって、消えてゆくの。

消してくれるのは何かというと、守護霊守護神が消してくれているんですよ。消えてゆくに決まっているんだから、
だから「守護霊さん守護神さん、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように」と言って自分の想いをただ光の中に、
神様の中に投げ入れれば、自然に消えてゆくんですよ。殊更に「消えてゆく、消えてゆく、消してしまわなければ、
消えちゃわなきゃ…」と言うのは駄目です。我(が)ですよ。よく間違えるんですよ。

11 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:38
          ◇祈りと念力の相違◇   「宗教問答 P150」

念力と真実の祈りとの区別のわからない宗教者は、かなり多いのであります。
念力とは、おもい、すなわち想念や思念の力であって、神とは直接関係のない力なのであり、
祈りとは生命(神)を宣り出す方法、つまり自己の生命の働きを、神の生命として宣言し、
真っ直ぐに発顕することなのであります。

念力は、神を考えなくても、自己が自己の欲する事物に一念を集中すれば、その一念の強さに従って、
その事物に対る自己の目的を達成し得るわけであります。「想う通りになる世界」などという教えは、これです。
これは善悪にかかわらず、自我欲望でありまして、この念力のみに頼りますと、知らず知らずのうちに、
自我の強い人になりがちなので
あります。

神を信じ、おかげを項いているという人々の中に、意外な程、この念力による利益に酔いしれている人々が多いのであります。
この人々は、自我欲望を達するために、神という的に向かって一念を集中し、その念の力によって、自己の望みが達せられたことを、
宗教信仰と誤り考えているのであります。このような悪い癖がついてきますと、「神は常に自己の想う通りになるもの」
と思い違えたり、神はただの飾り物にして、自己の念力の強大化に満足してしまう傾向を持ってくるのです。昔の修験者行者などには、
こうした類の人々が多くあったのです。

12 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:39
その反面に、この念力に頼って、「この世界は自己の想う通りになる」というメンタルサイエンス式の生き方で生活しておりますと、
その念力の強弱によっては、自己の想う通りにならずに、先見越しの事業をやって失敗したり、医者にかかったら治り、
安静にしていたら治るような病気を、治す機会を失って死んでしまったりするのであります。

念力と念力との闘いになったりする場合もあるのです。念力は、あくまで神そのものへの信仰ではなく、
神を離しても行なえる力であって、この念力に頼っている以上は、個人の真実の救われや悟りに入ることもできなければ、
人類の大調和、世界の平和の実現にはなんらの効果もない、というのであります。

真実の祈りには念力が強いも弱いもなく、神様の胸にすがりついてゆくことが祈りなのであります。
そうしますと、自己を覆っている業想念は、神の大光明によって照破され、その人の心に、その人の生活に、
神そのままの善なる美なる真なる生活が、現れてくるのであります。そして、その祈りを一番わかりやすく、
一番誰にもできやすく、そうして効果的にしたのが、世界平和の祈りなのであります。

13 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:41
          ◇祈りと念力の違い◇   「聖なる世界へ P117」

祈り心と、念力とは違います。祈りとは、神の生命のひびきに、肉体の想念が一つになって、本心をひぴき渡らせようとする、
その方法であり、念力とは、自己の思念の力を集中することであります。祈りは神のみ心を常にそこに現すものですから、
その結果は調和したものでありますが、念力は神とは関係なく、自己の想念意志の力をそこに現すのでありますから、
その人の念力の達成が、神のみ心に反する不調和なものであることが多々出てくるのです。

祈りは、常に自己の想念を、神のみ心の中に投げ入れて、つまり神のみ心に人間の想いを全託して、神のみ心にすべてを
委ねる方法です。神のみ心に、人間の想念を委ね厚くしますと、人間の本心は神と一つのものですから、その瞬間から、
その人の「ああでもない、こうでもない」という想念波動がなくなり、その人の本心のみが働き出します。本心とは神のみ
心ですから、神のみ心の完全性がそこに現れて、物事が成就してゆくのであります。

念力の場合は、神のみ心である本心が働くのではなく、幽体に蓄積されている想念のエネルギーが、集中して或る目的にそ
そぎこまれるので、そのエネルギーの力によって、目的が達成されるのですから、他の人や他の集団が同じ目的にそのエネル
ギーをそそぎこめは、両者の念力合戦になってしまい、両者が傷つくのであります。

14 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:45
念力が強いことは、弱い人より、物事が成功していってよいでしょうが、あくまで自我の力ですから、宗教的な悟りの境地とは
反対の方向の力で、宗教者が念力を人々に勧めるとしたら、それは邪法であると思うのです。宗教者の目指すところは、神仏の
世界でありまして、神仏を離れた自我の世界ではありません。

釈尊が空になる坐禅観法を教えたのは、空にならずに、想念波動のエネルギーを使っての念力の修練では、三界の苦しみを超え
ることができないのを、知っておられたからなのであります。釈尊が、バラモンの教えを超越した仏教を立てられたのは、
念力をも含めた、あらゆる肉体人間の把われを放つことによって、人間は神仏の世界と一つになり得るのだ、
ということを教えたかったからなのであります。

人間はいつかは、神仏をはっきり自己のものとすることができるようになるのですが、その時代の前に、自己の力ででき得る
方法として、念力を謳歌する時が来ると思います。そうなれば、念力合戦のような状態が諸々で起こってくるでしょう。しかし、
真の宗教者は、そうした念力とはかかわりなく、ただひたすら、祈り心で明るく正しい生活をつづけていればよいのであります。
世界平和の祈りの日々こそ、明るく正しい生活をつづけるための神との一体化の祈りなのであやます。


15 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:46
         ◇念力は宗教の道とは反対◇  「聖なる世界へ P162」

近頃流行している、信念の力や念力の普及の道に、人々や国々が真剣になっていった場合、その奥の神のみ心の大調和ということ
を知らずにいたら、お互いの念力合戦になってしまいます。争いの力となってきます。

信念とか念力とかいうと、ちょっと宗教的な言葉のように思えますが、宗教の祈りの心とは全く反対の在り方ですから、
その点お気をつけ下さい。宗教の道は常に根底に神のみ心があり、人間同志の愛の交流があるのですが、宗教を離れた信念や
念力というのは、これが他への影響を考えぬ、利己主義的なものでありますと、地球の不調和に拍車をかける
ことになってくるのです。

宗教の道に入りながらでも、自分の利益のためには、神様を自分の方に引き寄せ、自分の望みを叶えてもらおう、
というのがあります。本来は、神様のみ心のほうに、自分のほうから精進潔斎して昇ってゆくべきなのに、
自分の道に神様を引きこもうというのですから、誤った信仰なのですが、意外とこんな信仰の人が多いのです。
こういう信仰の人は、信念の力や念力の活用に興味を持って、神様を捨てても、そのほうに走ってゆくかもしれないのです。


16 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:47

         ◇念力の願望達成法は神のみ心ではない◇ 「愛すること P177」

宗教によっては、「欲しいものがあったら、その欲しいものを頭に描いて、この願いが叶えられる、叶えられる、と一心に想いなさい。
そうすれば、それは叶えられます」という念力の願望達成の方法を、祈りとして教えているところもありますが、
それはあくまで念力でありまして、神のみ心によって叶えられたものではありません。

業生の想いの力によって達成したものです。この念力的生き方でまいりますと、同時に幾人かの人が、同じ物を欲した場合、
どうしても念力の争いになり、調和な心は崩れ去ります。これを宗教的な在り方ということはできません。

宗教的な生き方とは、主体は常に神であり、神のみ心でなければなりません。神のみ心を主体にし、自己の想いを神のみ心に合わせて
ゆく、という生き方をしてゆくことを、祈りの生活というのです。「すべてを神の方(かた)から与えられる」という基本的な生き方、
これが祈りの生活なのであります。


17 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:51
         ◇祈りと念力の相違◇ 「白光への道  P56」

近頃、精神科学的な本がたくさん出版されてきて、信念とか念力とか想念とかいう言葉が科学的に説かれています。
現今では、西欧側からこうした言葉が、精神科学的な言葉として移入されてきて、日本でもそうした訳本が多く出板されるようになり、
心理学者、医学者、それに一部の宗教家が、それを自己の研究結果として、自己の思想として発表しているのです。

それはそれなりに学説でもあり実証的発表でもあって、私もどうこう言おうと思ってはおりませんが、そうした学説なり思想なりが、
一度び宗教者の口から宗教思想のごとく発表され始めると、大変な過ちが起こり始めるのです。

信念の力というのは、まことに結構でありまして、神仏を信ずる力の方にも向けられる言葉でありますが、これが念力とか想念の力とかい
うふうに転じてまいりますと、それを宗教者が宗教の話として、神仏を口に説きながら話される場合には、余程気をつけて話しませんと
、聴衆や信者を誤った道に引き入れてしまいかねないのです。


18 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:51
         ◇祈りと念力の相違◇ 「白光への道」

想念の力すなわち念力と、祈りということの区別をはっきりつけている宗教家は少ないのです。例えば、
「職が欲しい、家が欲しい、金が欲しい」といったような場合、「その欲する目標に向かって一心を集中し、
つまり想念の力を強くしていけば、その職なり家なり金なりが、自己の下に引き寄せられる。だから、その目的物に向かって
一心を集中しな
さい」というような教えがあるのです。

また或いは、「『自己の欲する物は、すでに与えられているのである』と堅く思いこむことです。常に想いつづけることです」
というように教えたりもしているのです。「さすれば、必ずその物は、あなたに与えられる。もし、その希望が叶えられぬとするならば、
それは神が『あなたに必要がない』と思われるからである」と希望が叶えられぬ時の言い訳までしているのです。

そしてこうした教えが、宗教の一つの方法であるように、信者や読者にはどうしても受け取れてしまうような説き方、
あるいは書き方がしてあるのです。こうした教え方は、純粋な宗教精神からすると、実に困った、誤った説き方なのです。
こうした説き方が、「新しい宗教である」と思われたり、「宗教的祈りである」と思わせたり、「科学的宗教」と言って
「宗教の一つの説き方である」と思わせたら、真の宗教精神から、人間を功利的精神に引き下げてしまうことになって、
宗教の堕落になってしまうのです。

想念の力ということと、祈りということとは、まるで違うことなのです。想念の力ということは、精神科学であって、
宗教ではありません。想念の力と祈りとを混同して、共に宗教の分野に置くことはできません。


19 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:52
         ◇祈りと念力の相違◇ 「白光への道」

宗教心の祈りの心は、想念の世界、つまり業因縁の渦巻く三界を超えた働きになるのです。想念の力(念力)のように、
業因縁の世界の幸不幸を問題にするのではなく、真実の世界、神仏の世界に到達して、真実の人間の姿(仏、菩薩)
を顕し得る心の働きとなるのです。いいかえますと、祈りとは、自己の本体、直霊(神)に合体する為のものであり、
念力とは相対的世界、肉体界、幽界、霊界の三界に働く想念の力であります。

祈りは、自己の想念の力をすっかり神様にお返しして、お任せして、空になってしまった心境であり、念力は、
自己の想念の力を他に働きかけて、自己の想い通りに相手を動かそうとする心であり、業因縁の執着する心、把われの心であります。

こうしたことを認識せず、祈りと念力とを、同じと思わせるような説き方をすることは、宗教への冒涜であります。



20 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:53
         ◇祈りと念力の相違◇   「白光への道」

宗教は人間の心から執着を放して、自由自在な心、神と等しい無礙の心にさせる教えでありますが、念力は執着の心であって、
これを強めるということは、執着力を強めるということになるのです。お互いが念力を強め合ったら、次第に力と力の争いに
なってゆきます。昔の行者は、念力による試合のようなことを、よくやっていたようでありまして、滝の水を止めたり、
石を念力で持ち上げたり、降ろしたりして、闘ったようです。

こんなことは、何ら宗教とは関係のないことで、只単なる力の錬磨というにすぎないのです。従って、念力では人類の平和、
世界の平和はおろか、一人の人間の真実の平和を築きあげることもできないのです。念力の世界には闘争や不和がありますが、
祈りの世界には闘争も不和もないのです。もしあったとすれば、それは過去の誤った想念行為の消えてゆく姿として起こって
いるだけなので、その祈りをつづけてゆけば、やがて不調和な姿は無くなってしまうのです。

ですから、宗教者が、祈りと念力の相違を認識せず説くことは、信者を外道(誤てる道)に引きずってゆくことになるのです。
まして、「無くてならぬ物は、必ず与えられる」とか「念じても与えられぬ物は、神がその人に必要でないと思われるからだ」
とかいうことを付け加えているのは、宗教者としての大きな矛盾であります。よくよく気をつけなければいけないと思います。 


21 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:54
         ◇祈りと念力の相違◇  「白光への道」

信念ということも、本体の力を信ずる念い、自己の真実の力や運命を信ずる念い、いいかえれば、神を信ずる想念(おもい)
にならなければ、真の信念とは言えないのです。絶対力(神、本体、直霊)から自然に湧き出てくる力ではなく、
その場、その時の力みや自分勝手な想念の力を、信念の力と誤解してしまうのは、真の信仰心のない人たちがやることなのです。

真の信仰心とは、信念の力とか想念の力とか、そうした言葉から入ってくるのではなく、純粋認識的、純粋行為的に、
自己の心に湧き上がり、行動となってゆくものなのです。真の信仰心とは、不退転の力として現れるものであり、意気張らず
、強がらず、素直に、なんでもなさそうに、自然に、愛と真の行為として現れるものなのです。

それが真の祈りの大効果なのであります。信念の力とか、想念の力とかいう言葉に出たり、思ってみたりする時は、
もうすでに宗教心から一歩後退している、ということになるのです。

22 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:55
          ◇祈りと念力の相違◇ 「白光への道」

くりかえして申しますが、念力というのは我であって、念力を強めて、自己の望みを遂げようということは、
ついには戦いの姿になってゆきます。何故なれば、お互いが念力を強め合って、お互いの望みを遂げ合おうとする場合には、
必ず、弱肉強食のような不調和な世界が出来てしまうからです。

そして、その人たちは常に念力を強める努力をしていなければならぬので、いつも少しもゆとりのない緊張した心の状態でい
なければなりません。「油断をすれば、或いは一つ目的を想いつづけなければ、自己の望みが遂げられなくなる」ということ
になり、落伍者となってゆくわけになるからです。

もし、すべての人たちが、この想念の力ということを認識して、想念の力を強め合う時のことを考えてごらんなさい。想念の
力の弱い者は、常に敗北者の憂き目をみているということになり、昔の武力の変形ということになってくるのは必然です。或
る時は想念の力で利益を得ても、それは神に任せた心境ではなく、あくまで現象人間の自力なのですから、想念力の衰えた時
には、悲惨な境遇に陥らぬとは限らぬのです。これでは魂の向上にも、悟りにも、少しも関係のないことになるのです。ですか
ら私は、「宗教家があまり想念の力をとやかく言って宣伝することは邪道である」と言うのです。

人類は真の祈りなくしては、永劫に救われない者なのです。「自己の本体の神なることを信ぜよ。そして祈り、そして起て」
と私は強く叫ぶものなのです。


23 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:55
          ◇祈りと念力の相違◇  「白光への道」

「無くてならぬ物は、必ず与えられる」これが真理なのです。無くてならぬ物は与えられるのですから、何も殊更念力を使って
物を引き寄せることはないのです。すべて神様にお任せする心境になって、大きな祈り、根本的祈りの、世界人類の平和、
日本の平和の祈りをなし、自己や家族の天命の完うされることを祈った方が、余程秀れた行為だと思います。

自己の真の幸福は、常に世界人類平和の中に、そして天命が完うされる中にあるのであって、その場その時の幸福を招き寄せよ
うとする念力などは、問題にならぬほど低い願いであるのです。それは或る時は、「恐怖の別名である」と言うこともできるのです。
「無くてならぬ物は必ず与えられる」この真理を深く信念づけてゆくべきです。それが神を信ずることになるのです。神〈直霊、本体)
から現象知覚に判らぬうちに生み出され、育てられてきた自分たちが、なぜ己れを生み出し、育ててきたものを信ずることが出来ぬの
でしょう。実に不思議に思えるのです。太陽は、空気は、すべて自然(じねん)と己れに与えられているのです。肉体人間がいかに
思念しようと、働こうと、太陽を作ることはできないのです。

24 :名無しさん@3周年:04/04/25 00:57
しかし、自己の本体の中には、太陽を初め、すべての物を生み出す力があるのです。ですから、一度無力に近い人間の力を捨てきって、
本体(神)の力にすべてを委ね、任せてゆく祈りをすることを、先ず第一にしなければならないのです。人間の想いが、恐怖なく、
欲望なく、恨みなく、妬みなく、怒りなく、猜疑なく、何にも把われない、というならば、祈りすら必要ないのですが、現象人間には、
必ずこのうちのどの想いかがあるのです。

そこでどうしても、この把われを放つために、本体(神)と一体になる祈りが必要となってくるのであり、最も大事な人間の行為になっ
てくるのです。人間が相対的力によって、自己の物を獲得するのではなく、祈りによって、自然に自己の世界が作られてゆくようになら
なければ、真の人類平和は来ないのです。祈りによって生まれ出るすべての力こそ、相対的の力を超えた絶対力になるので、
これはもはや、力と呼ぶより、自然法爾とでも呼ぷより他に呼びようのない絶対の現れになってくるのです。そうした生き方をしている
人は、現在の世界にもかなりあるのですから、誰にでもできる生き方なのです。それが信仰なのであり、宗教心なのであります。

25 :名無しさん@3周年:04/04/25 01:00
          ◇祈りと念力の相違◇ 「白光への道」

くりかえして申しますが、念力というのは我であって、念力を強めて、自己の望みを遂げようということは、
ついには戦いの姿になってゆきます。何故なれば、お互いが念力を強め合って、お互いの望みを遂げ合おうとする場合には、
必ず、弱肉強食のような不調和な世界が出来てしまうからです。

そして、その人たちは常に念力を強める努力をしていなければならぬので、いつも少しもゆとりのない緊張した心の状態でい
なければなりません。「油断をすれば、或いは一つ目的を想いつづけなければ、自己の望みが遂げられなくなる」ということ
になり、落伍者となってゆくわけになるからです。

もし、すべての人たちが、この想念の力ということを認識して、想念の力を強め合う時のことを考えてごらんなさい。想念の
力の弱い者は、常に敗北者の憂き目をみているということになり、昔の武力の変形ということになってくるのは必然です。或
る時は想念の力で利益を得ても、それは神に任せた心境ではなく、あくまで現象人間の自力なのですから、想念力の衰えた時
には、悲惨な境遇に陥らぬとは限らぬのです。これでは魂の向上にも、悟りにも、少しも関係のないことになるのです。ですか
ら私は、「宗教家があまり想念の力をとやかく言って宣伝することは邪道である」と言うのです。

人類は真の祈りなくしては、永劫に救われない者なのです。「自己の本体の神なることを信ぜよ。そして祈り、そして起て」
と私は強く叫ぶものなのです。


26 :名無しさん@3周年:04/04/25 01:02
      ◇真理にとらわれるな◇「愛すること」  (白光真宏会出版局) より抜粋

    【真理をそのまま現すことは至難のことである】

真理の教えと、どうしても実生活はギャップがあります。そのギャップに把われて、宗教的な人は悩むわけです。
私は初めから、真理を自己にそのまま現すことの難しさを知っていました。私自身は想念停止の修行によって、
自我を脱却して、神のみ心としっかりつながることができましたが、普通の修行ではとても、真理を自己の行為に
そのまま現すことは至難のことで、真理と現実の間に立って、宗教的であればある程悩むわけです。つまり、
真理に把われて、心がかえって不自由になってしまうのです。(中略)


27 :名無しさん@3周年:04/04/25 01:03
    【「完全円満だ」 と言って聞かせても、完全円満な行為になるわけがない】

頭の知識だけで、「人間は神の子である、病気だの不幸だのというもののない完全円満な存在だ」 と知っても、
これは真実心の底から知ったわけではないので、口で人にいってみたり、自分で一生懸命、表面の心に言って聞か
せたりしても、当人の想念そのものは、神界ではない、三界を経巡っているのですから、実際の行為としては、
神仏の行為になるわけがないのです。 (中略)

    【「完全円満だ」 「病気は無い」 と想う生き方も、一つの把われ】

「病気はない、病気はない」 と想いつづけているので、病気が治ったりすることもあります。しかしそれは三界の
想いの移だけでありまして、神との一体化によって治ったのではありません。やがてまた病気になる時もあります。
なぜ私がこんなことを言うのかと申しますと、そういう生き方も一つの把われなのだ、と言いたいからです。

    【幸福、健康、完全円満、神の子と想っても、自由自在心にはなれない】

「幸福と不幸」 「健康と病気」 「完全円満と不完全」 「神の子と肉の子」 というように、いちいち分けて考えて、
自分に都合のよいほうにしがみついて、一生懸命、「自分の都合のよいほうのことを想おう」 などというケチな根
性で、どうして無礙自在の心境や、自由自在心になれるでしょうか


28 :名無しさん@3周年:04/04/25 01:06
    【「完全円満だ」 と言って聞かせても、完全円満な行為になるわけがない】

頭の知識だけで、「人間は神の子である、病気だの不幸だのというもののない完全円満な存在だ」 と知っても、
これは真実心の底から知ったわけではないので、口で人にいってみたり、自分で一生懸命、表面の心に言って聞か
せたりしても、当人の想念そのものは、神界ではない、三界を経巡っているのですから、実際の行為としては、
神仏の行為になるわけがないのです。 (中略)

    【「完全円満だ」 「病気は無い」 と想う生き方も、一つの把われ】

「病気はない、病気はない」 と想いつづけているので、病気が治ったりすることもあります。しかしそれは三界の
想いの移だけでありまして、神との一体化によって治ったのではありません。やがてまた病気になる時もあります。
なぜ私がこんなことを言うのかと申しますと、そういう生き方も一つの把われなのだ、と言いたいからです。

    【幸福、健康、完全円満、神の子と想っても、自由自在心にはなれない】

「幸福と不幸」 「健康と病気」 「完全円満と不完全」 「神の子と肉の子」 というように、いちいち分けて考えて、
自分に都合のよいほうにしがみついて、一生懸命、「自分の都合のよいほうのことを想おう」 などというケチな根
性で、どうして無礙自在の心境や、自由自在心になれるでしょうか


29 :名無しさん@3周年:04/04/25 01:07
    【完全円満論も精神分析論も、世界平和の祈りの中に入れる】

まして、前者の教えと後者の教えとが一緒に組まれた教えについた人などは、或る時は「完全円満論、神の子論者」にな
り、或る時は「精神分析論者」になって、二重の把われを持って宗教の道をいかねばならなくなります。

神の子完全円満論者も、精神分析論者も、一度自己の立場を捨てきってしまう必要があるのです。自分はこういう教えの
こういう立場にある、ということを神様のみ心の中に捨て切ってしまう。三界の中、肉体生活にしみている業想念を、祈
り心、私流にいえは消えてゆく姿で世界平和の祈りとして、神の大光明の中に入れきってしまうことが大事なのです。一度
、宗教の道に入ったら、それ迄のその人の習慣の想いや立場を、神様のみ心の中にお返ししてしまって、新しい自己をいた
だき直す、ということが必要なのです。それをしない限り、いくら「神の子完全円満」 と唱えていても、その人にかえって
くるものは、
その人の心境そのものでしかありません。(中略) 

以上
http://www.ictv.ne.jp/~noboru51/kokoronohousoku.html
http://www.ictv.ne.jp/~noboru51/nenrikihenihi.html
http://www.ictv.ne.jp/~noboru51/sinrinitorawareru.htmlより

30 :前スレより:04/04/25 01:09
日本評論(昭和十二年一月)
「生長の家」盛衰記 笠木耕二
  一、
 無数にちかい新興類似宗教の中で、もっとも頭角をあらわして世の注目を惹いた
「皇道大本教」が不逞不遜のかどで哀れ壊滅の悲運に遭い、つづいて「教育勅語」や
人倫道徳を売り物にした「ひとのみち」教祖が皮肉にも自らの桃色事件で検挙されて
も、今様穏田の生神様谷口雅春だけは未だに無難でいるばかりか、このごろは鳥なき
里の蝙蝠のようにいよいよ図に乗ってノホホンをきめ込んでいるかに見える。加うる
に家付の大番頭を以って自任する前陸軍主計総監辻村楠造は「生長の家の出現は釈迦
キリストの再来だ、否寧ろそれ以上の出現であると思う。釈迦キリスト老子乃至孔子
は世界の大聖人と称せられてその発見されたところも真理であるけれども、爾来二千
余年乃至二千五百年余を経て実続のみるべきものなく、却って堕降に堕降を続けて今
日のごとき大勢を馴致している。その際谷口先生の現われたるは真に救済の主たるを
思う。」
 と熱狂的賛辞を並べ、無我愛運動の伊藤証信(後に谷口とケンカ別れした)また、
「爾来私は『生命の実相』及び『生長の家』を読みつづけて居りますが、読めば読む
ほど共鳴共感を強くし、且教えられ、啓発されるところ頗る多く(中略)筆者谷口氏
の魂は現に神仏の霊を以って満たされているかのごとく感ぜざるを得ない」
 と生神様谷口のために大変な提灯の持ちようである。だが果して「生長の家」及び
谷口雅春は彼等のいう如き内容を具えたものであろうか。


31 :名無しさん@3周年:04/04/25 01:11
次どうぞ 

32 :名無しさん@3周年:04/05/04 18:00
hosyu

33 :名無しさん@3周年:04/05/12 14:37

         ○ パン パン!
 \_ u   "し) 
           ̄ 


           ハハ 〜
 \_ u  ○ノ^)_ 



         ○ パン !
 \_ u   "し) 
           ̄

          /~~"  ナニトゾ
         《○    アゲタマエ〜 ホシュシタマエ〜
 \_ u     )

34 :名無しさん@3周年:04/05/16 03:21
∧_∧                      
        ∩ ・∀・)
        ヽ    )               
        | | |                    
..      _(__)_)_ 
      │..____..│
      │《谷口雅春》│
      │.. ̄ ̄ ̄ ̄..│
      │       │
     ┌──────┐


35 :名無しさん@3周年:04/05/16 03:25
生長の家について語り合いましょう
http://mentai.2ch.net/psy/kako/976/976997309.html
生長の家について語り合いましょう(2)
http://life.2ch.net/psy/kako/993/993654339.html
生長の家について語り合いましょう(3)
http://life.2ch.net/psy/kako/1012/10128/1012835211.html
生長の家について語り合いましょう(4)
http://life.2ch.net/psy/kako/1018/10187/1018710625.html
生長の家について語り合いましょう(5)
http://life.2ch.net/psy/kako/1019/10193/1019339947.html
生長の家について語りあいましょう 6
http://life.2ch.net/psy/kako/1020/10200/1020094207.html
生長の家について語りあいましょう 7
http://life.2ch.net/psy/kako/1021/10214/1021446161.html
生長の家について語り合いましょう(8)
http://life.2ch.net/psy/kako/1028/10281/1028139042.html
生長の家について語り合いましょう(9)
http://life.2ch.net/psy/kako/1031/10315/1031595114.html

36 :名無しさん@3周年:04/05/16 03:26
生長の家に語り合いましょう10
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1059539090/
生長の家について語り合いましょう(11)
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1065237915/
生長の家について語り合いましょう(12)
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1069290542/
生長の家について語り合いましょう(13)
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1074645417/
生長の家について語り合いましょう(14)
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1078804238/
生長の家について語り合いましょう(15)
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1081782848/l50
生長の家について語り合いましょう(15)
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1081688177/l50


37 :名無しさん@3周年:04/05/16 03:27
生長の家信徒限定スレ
http://life.2ch.net/psy/kako/1002/10026/1002626025.html
生長の家ってどんなとこ?
http://mentai.2ch.net/psy/kako/994/994082261.html
成長の家について
http://mentai.2ch.net/psy/kako/983/983014649.html
生長の家はおかしい!!!
http://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970899744.html
恐縮ですが、生長の家なるものは
http://life.2ch.net/psy/kako/1031/10312/1031217586.html
「生長の家神の国寮」の児童虐待 TVで放映
http://mentai.2ch.net/psy/kako/995/995460452.html
生長の家ってどんな家?
http://mentai.2ch.net/psy/kako/939/939753407.html
生長の家ってどう?
http://mentai.2ch.net/psy/kako/954/954856444.html
☆生長の家の人、集まれ☆
http://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970852502.html
生長の家ってどうよ。
http://mentai.2ch.net/psy/kako/973/973818550.html
生長の家ってただのウヨじゃん
http://mentai.2ch.net/psy/kako/978/978185837.html

38 :名無しさん@3周年:04/05/16 03:27
生長の家が中国で布教
http://life.2ch.net/psy/kako/1026/10266/1026615522.html
生長の家=右翼?
http://life.2ch.net/psy/kako/1024/10242/1024243268.html
生長の家(7)
http://life.2ch.net/psy/kako/1021/10212/1021276808.html
★生長の家青年会のお局について語りましょう★
http://life.2ch.net/psy/kako/1021/10217/1021733887.html
生長の家について
http://life.2ch.net/psy/kako/1015/10153/1015315031.html
生長の家について語りあいましょう 7
http://life.2ch.net/psy/kako/1021/10214/1021446161.html
★★★生長の家と白光真宏会★★★
http://life.2ch.net/psy/kako/1024/10248/1024888527.html
立正佼成会と生長の家
http://life.2ch.net/psy/kako/1021/10215/1021513068.html
生長の家
http://ex.2ch.net/entrance/kako/1023/10234/1023418243.html

39 :名無しさん@3周年:04/05/16 03:28
愛はまず家庭から始まるのです。
愛は家庭に住まうものです。

こどもたちは
家庭のなかに愛やほほえみを
見つけることができません。
こどもたちはさびしすぎるのです。
さびしさをまぎらすために
外へさがし求めにゆくのです。

マザー・テレサ


40 :名無しさん@3周年:04/05/16 03:31
「生長の家神の国寮」の児童虐待 TVで放映
1 名前: 名無しさん@2周年 投稿日: 2001/07/18(水) 21:47

http://www32.tok2.com/home/gyakutai/
http://www32.tok2.com/home/gyakutai/rep/kamino/ugoki0010708a.html
http://www32.tok2.com/home/gyakutai/rep/kamino/ugoki0010708b.html
性的虐待まで・・・酷すぎる。



41 :名無しさん@3周年:04/05/16 03:33
生長の家
http://qb.2ch.net/saku2ch/kako/1030/10307/1030798682.html
「生●の家」信者が書きこんでるって本当?
http://saki.2ch.net/news/kako/986/986744271.html
初代:恐縮ですが、生長の家なるものは
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1031217586/l50



42 :名無しさん@3周年:04/05/16 13:04
>>35->>38&>>41
乙っす。

43 :名無しさん@3周年:04/05/26 02:13 ID:peV84PoH
 現代の宗教運動は現代インテリと直接関係があるのではなくて、実は現代の小市民層に直接関係しているのだ。
そこで「ひとのみち」に見られるような、あまり上品でない教義や行為が、最も有力になるわけなのである。
その徹底した家庭的エロティシズムなどはたしかにインテリ向きではなくて、小商人向きなのである。それから
「生長の家」は本を読むことが大事な契機になっているし、精神主義的ロジックも学者の如くではなく権威ある
ものの如くに中々鋭いから、少なくとも相当教育があるか又は相当頭がなくては這入りにくい。之は確かに或る
層のインテリに向いている。処が指導者谷口が、精神治療を行った実例を枚挙するのを見ると、いずれも近代生
活をなし得る程度の小市民の日常生活からの引例なのである。お神さんや女房はあまり出て来ないが、良家のマ
ダムは沢山出て来る。子供の学校の成績や入学試験で夢中になっているマダム達が沢山出て来るのである。――
それから「真理運動」の賛成者を統計で見ると、商人の次にはサラリーマンであって、仏教的教養のあるインテ
リ専門かと思うと、必ずしもそうではなくて、単に小市民層向きだと云った方が当っているようだ。勿論サラリ
ーマンは範疇としてはサラリーマンであって範疇としてのインテリゲンチャではないのである。

44 :名無しさん@3周年:04/05/26 02:14 ID:peV84PoH
 新興宗教は少なくとも高級なインテリの文化的要求を満足させない。大本教や天理教の聖書は文学的価値を持たぬ。
まして「ひとのみち」のものをやだ。谷口雅春や友松円諦の書くものは多少文学的価値を有つかも知れぬ、だが夫は
古典的価値を持たない。――彼等の宗教的情操を満足させるものは寧ろキールケゴールであり、優れた「文献学者」
だとかいうニーチェだろう。価値のあるのはこの歴史的な形而上学(!)だ。之に較べれば「お振り替え」(ひとの
みち)や「思念」(生長の家)や「真理商店」(真理運動)などは何と形而下的でインチキであることか。――だが
こういう点から、或る宗教がインチキであるかないかを決めるのは、真理としての問題ではなくて趣味と教養との問
題だ。私は初めに、之とは異った説明をインチキに就いて加えておいたのである。

45 :名無しさん@3周年:04/05/26 02:15 ID:peV84PoH
 もし得られる予定になってる結果が精神的な御利益ならば、それがどれ程功利的であり打算的であろうと、元々精神
の一手で綺麗に片がつくので、建前上の食い違いがなく、決してインチキには見えない。どんなに荒唐無稽であろうと
、正しい信仰である資格をもつことが出来る。元来荒唐無稽であるとかないとかは、精神界だけに止まっている限り問
題にもならぬのであって、どんな妄想を懐こうとその内容が純精神的なものに限定されていれば、決して狂人とは認め
られない。処が俺は神の子であるというような肉体的因果づけなどを主張し出すと、大分怪しくなって来る。自分は神
であるとか私は神に会ったとか云い出すと、初めて狂人と見做される。そしてもしこの妄想自身が物的御利益を明らか
に伴うならば、彼はもはや狂人ではなくて正にインチキ師と見做されるのである。
 「生長の家」のように、一種の宗教運動――精神主義運動――を標榜しながら、それが最も近代的な物質利益の追求
の一形態である株式会社活動である時、この矛盾はそれだけで又インチキの称号に値いすることとなる。そして宗教運
動が資本主義的ジャーナリズムにすりかえられるという処にも、食い違いがあるので、ここからも重ねてインチキの称
号が尤もに見えて来る。

46 :名無しさん@3周年:04/05/26 02:34 ID:peV84PoH
 併し、次の点はなお参考されねばならないのである。同じくインチキという一般的な評価に値いするにしても、例えば
福音書的キリスト教と「生長の家」的宗教とでは、決して同一なものとして機械的に片づけられはしないだろう。生長の
家が今後どういう「聖典」を伝承するか私の予断の限りではないが、その聖典振りとバイブルの聖典振りとの間には、確
かに大きい距りがあるように見受けられることを、否定してはならぬ。私がそういうのも、谷口雅春の書くものは、通俗
的な卑俗な友松円諦などのあり合わせの教義のつぎはぎとは違って、多少宗教的な鋭さを持っており(倉田百三やある場
合の武者小路のタイプに近い)、多少キリスト的でさえあるからだが、例えばお筆先の類と聖書の含蓄ある部分とを較べ
て見れば、この区別はもっとよく判るだろう。

47 :名無しさん@3周年:04/05/26 02:34 ID:peV84PoH
だがなぜそんなただの嘘が人々を惹きつけて来たか。
今日世間でいう所謂インチキ宗教ならば、之を人間の科学的無知から説明することも出来よう。尤も実は必ずしも無知から
ばかり説明は出来ないので、私の知っている或る人が「生長の家」を信じるようになった過程は、もっと遙かに合理的(!)
なのであった。と云うのは、その人は
不治の病気だが貧困で医者にかかることが出来ない。それで医者にかかる代りに、その弁解として、神様を信じることにした
のである。こういう弁解の道が発見されたので、その人は安心をし、そして無駄な金を費わずに死ぬことが出来た。だから邪
教への動機を一概に迷信によって説明することは決して適切ではないのだが、併し、世界的宗教の高遠な虚偽は、そういう弁
解にも口実にも経済にもあまりなるのではない。

48 :名無しさん@3周年:04/05/26 02:38 ID:peV84PoH
 ところで、次に「生長の家」は自分では宗教でないといっているが、世間ではこれを一種の宗教と認定している。思念した
だけで一切の病気・不幸・困難が姿を消すという誇張された精神主義が、即ち宗教だと世間では見ているのである。だが、生
長の家自身これを宗教とは考えず、寧ろ凡ての信念の帰着点だと主張していることには、大いに意味があるのだ。というのは、
世間では、そういうことが取りも直さず「宗教」ということで、そして同時にそれが「邪教」=「インチキ宗教」というもの
だと見ているのだからである。――つまり宗教でないものも、それがインチキであることによって忽ち宗教となる、というわ
けだ。生長の家が出版企業と宗教とを結びつけたがゆえに初めてインチキ宗教になった、のではない証拠には、たとえば出版
企業と出版報国とを結びつけてもその報国活動がインチキにならぬことを見ればいい。

49 :名無しさん@3周年:04/05/26 02:50 ID:peV84PoH
もはや世間では哲学とは呼ばない。ブルジョア哲学が宗教化したともいえなくなる。だが生長の家で色々と手当り次第にヨー
ロッパ哲学を利用しているのを見れば、この種の擬神道インチキ宗教も亦、一個の哲学と見なされていいかも知れない。そし
てこの種の思想体系が、如是閑氏の表現をかりると、ナポレオン的世界征服の代りに、大本教的世界征服を企てているという
意味に於て、擬似ファッショ思想体系であることを、注目すべきだ。この擬似ファッショ哲学も亦、日本のブルジョア哲学宗
教化の一つの場合だろう。


B4_3C思想と風俗
http://pfeil.hp.infoseek.co.jp/B4/B4_3C.HTML

50 :名無しさん@3周年:04/05/26 02:51 ID:peV84PoH
1985年6月17日に谷口雅春が死去し娘婿の谷口清超が後任の総裁になると、政治活動からは手を引き専ら教化面での活動に
専念するようになる。最近では「国際平和信仰運動」を主導すると共に、教義面でも国粋主義的な側面を再検討するなどし
ており、教団内に軋轢を生んでいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%AE%B6


反憲学連学友に暴行
九州大学新聞(11月25五日付)
《生長の家系の天皇制右翼反憲学連が11月に入って教養部に登場し活動を活発化させている。
 彼らは「反共・反安保・九条解体」をスローガンに、全国の大学で右翼学生運動の建設を目指して活動している。
とりわけ日本大学文理学部では、80年11月の武装登場以来、テロ・リンチを用いて学園の恐怖支配を行っている。
 「戦後史研究会」を名のってビラを配っていた彼らは、11月5日、「真の戦没者慰霊を考える」を銘打って学内でシ
ンポジウムを開催しようとしたが、急きょ集まった学友の抗議の前にこれは断念せざるを得なかった。
 さらに11月25日、「三島由紀夫森田必勝憂国忌」ということで学内で集会をやろうと昼休みに登場し、多くの学友
の目の前で、抗議する一人の学友に暴行を加えケガを負わせた。
 彼らの主張は民族排外主義に貫かれたものであり、「大東亜戦争は聖なる斗いであった」「朝鮮人は天皇のために
喜んで死んでいった」と、侵略、虐殺行為を正当化し賛美するものである……》
このところ原理研と並んで反憲学連(生長の家)が各地の大学で活動を活発化させている。恐ろしい時代になったも
のだね。
岡山大学新聞274号
http://www.erde.co.jp/~masaru/okayama/274/274_3.html

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