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坐禅と見性(机龍之介はアクセス禁止)

1 :南予出身:04/05/18 09:27 ID:5l4pouB+
前スレは机の乱入で糞スレになってしまいました。
 新たにここで、見性について情報交換しましょう。

検証した人に、見性のきっかけ、修行のコツなと伺いたいです。
どうか、我々凡夫にアドバイス下さい。


2 :名無しさん@3周年:04/05/18 10:16 ID:eaPeW80k
坐禅していない人は、このスレには参加できないのかな。
坐禅は難しいから、見性している人は少ないのではないかな。
見性は禅ばかりではないと思うが。

禅の公案や見性は物真似のように見える。
使う言葉も、禅の用語ばかり、もう少し自分の言葉で話すことができないのかな。
前スレの チ−ンも、カーンも、机と同じように見える。物真似ばかりしておる。

3 :露堂:04/05/18 11:16 ID:QzBT2RPX
まずは記念カキコ

坐禅は“安楽の法門”といわれるくらいですから難行でも苦行でもありません。
菩提心さえあれば誰でも続けられるものです。
これほどすばらしいものはありませんね。

まあ、マターリ行きましょう。



4 :名無しさん@3周年:04/05/18 14:50 ID:iN8RxAGi
まあ、明日は明日の風が吹くというのが悟りの境地だな。

5 :露堂:04/05/19 08:53 ID:dcnZwH7f
 白隠が「隻手の音声」という有名な公案を掲げて提唱をしているのをみて、ある店の主人が言ったそうだ。

 白隠の片手の声を聞くよりも、両手を叩いて商いをしよう。

 それに対して白隠は涼しい顔して、

 隻手の音声そのものが商いじゃもの、いかいご苦労。

 と言ったそうだ。

6 :名無しさん@3周年:04/05/19 10:03 ID:mOVAn263
禅を知らない者には分からない、物真似ばかりしておるな。

7 :名無しさん@3周年:04/05/19 11:35 ID:rfRK5Kaj
座禅は心や体のバランスのとれた状態をさぐり出す意味があると思う。
その状態を身につけてアンバランスにならないようにする。
欲望に傾いたり、自暴自棄になることを避けられると思う。


8 :名無しさん@3周年:04/05/19 12:03 ID:RLCvkd5v
明日は明日の風が吹くとは、無責任な境地だな。
心身のバランスをとるぐらいなら、禅でなくともできる。

9 :南予出身:04/05/19 16:26 ID:/UF6xgvj
私は曹洞宗のお寺の坐禅会に参列し始めて1年になるが、今週私だけ呼ばれて
「無字の公案」(犬に仏性はあるか? 無、というやつ)を出された。
感激した。よ〜し、この公案と取り組むぞ!!!!!しかし、難しいね。この公案を
自分の実感として解けたら、見性体験するんだろうね。何年かかることやら。

10 :名無しさん@3周年:04/05/19 16:29 ID:Mod2f8/g
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
基地外久しぶりやのう、あひゃひゃひゃ

11 :名無しさん@3周年:04/05/19 16:30 ID:cLZ7GZHb
タイトルにコテハン名を入れるとまずいよ

12 :露堂:04/05/19 16:33 ID:dcnZwH7f
>>9

ぜひ何年かかろうと真剣に続けて、是非透関して下さい。
それだけのものは絶対にありますよ。

13 :名無しさん@3周年:04/05/19 16:38 ID:qPBtCjxi
>「無字の公案」(犬に仏性はあるか? 無、というやつ)を出された。

犬に問うたら如何でしょうか


14 :名無しさん@3周年:04/05/20 02:27 ID:lDmMOYIa
>>13
犬と同レベルの2ちゃんねらーの総力を結集して9を徹底させてあげよー。
さあ、


「犬に仏性のありやなしや!?」

15 :名無しさん@3周年:04/05/20 15:10 ID:oJpRFukW
付く絵に仏性ありやなしや?

16 :南予出身:04/05/20 15:29 ID:6fBAvP/g
路堂さん。励まし、ありがとうございます。頑張ります。

17 :露堂:04/05/20 16:11 ID:ja6bnpxU
よい縁に恵まれましたね。禅は最初が肝心です。最初を誤れば掛け違ったボタンと同じで、とんでもない方向へ進んでしまいます。
一度誤れば、修正するのはほとんど不可能になります。2chにもそういう御仁がおりますね。

始めは無を追いかけるでしょう。
追って、追って、追って、とことん無を追いかけてください。
それが透過する早道です。

提唱には出来るだけ参加したほうがよいでしょう。ある時、まるで自分のために言ってくれていると思うときが来るかも知れません。
その時は、かなり透過が近いかもしれませんね。でもこれを期待してはだめですよ。
これはそもそも雑念ですからね。今言った事は聞き流して捨ててください。
男子一生の問題ですので、中途半端で投げ出さないように(そんなことはないと思いますが)、頑張ってください。


18 :南予出身:04/05/20 19:48 ID:C/qGFp3t
露堂さんへ。そうなんです。無を実感しようと思うのですが、頭の中で考えて
いるだけで、実感できないんです。だから「見跡」のまま、「見牛」の位にいけません。
 疲れているときは時々坐禅をサボるので、これからは20分でもいいから毎日やろうと
思っています。

19 :名無しさん@3周年:04/05/20 23:45 ID:9eJRlzx/
犯罪者机龍之介 ◆8Z1PfzdK1は、禁止なのか

警察に通報するぅていうと、どこかに逃げやがったか。

20 :名無しさん@3周年:04/05/21 03:15 ID:7QBSx4WL
犬だろうと仏性あるのが前提の禅宗で、なんで「無!」とか言っちゃうわけ?
だれか一人くらい知ってるんだろ?え?

21 :名無しさん@3周年:04/05/21 03:26 ID:BsLAX4Wz
なんと簡単な問題を出すのか。しらけた。

22 :名無しさん@3周年:04/05/21 03:41 ID:ZhJ6922P
>>18
心配せんでも>>17のカキコから察するにけん制はしておらん。
けん制しておったら言うはずのないことをチラホラ出てくるよって間違いなかろう。

23 :名無しさん@3周年:04/05/21 03:45 ID:ZhJ6922P
>>18
君がけんせきと言うのもあやしい
けんせきはつくえぐらいをけんせきというのであって君はそこまでいってなかろう。ん。

24 :露堂:04/05/21 08:42 ID:V8Y/Waf2
>>18
無字公案の取り組み方は、もう師家から聞いていらっしゃると思うので言っても仕方ないと思いますが、
とりあえず言うと、始めは考えるものです。
そして一所懸命に考え抜くことです。考えて、考えて、考え抜くことです。
そうしているうちに考えるものもなくなって、一切の思考が停止してしまいます。
まったくお手上げ状態のどん詰まりです。そこまで行かないと、この公案は透りません。
それがこの公案の意味があるところですからね。
その近くになると、たぶん師家から生来の悪癖を指摘されます。
それが機縁となって気が付き、論理知識が支配している世界から超脱するでしょう。


25 :露堂:04/05/21 09:20 ID:V8Y/Waf2
見跡とは仏教や禅のことが知識として正しく理解できた段階です。
ですから、禅とは何かを一応理解していなければ、参禅しようとしませんし、間違っていれば師家から指摘されますので、参禅する方は見跡の段階でしょう。
参禅もせず自己流の間違った解釈を主張し、仏祖伝来の禅を正しく理解しようともしない方は尋牛の名にも値しません。


26 :南予出身:04/05/21 09:54 ID:Fa1GMHlG
露堂さんへ。考え抜いていくことから始めていいのですね。分かりました。
ところで、公案の解答や、解釈が書いてある本を何冊が持っているのですが、
そういうものを参考にしていいのでしょうか?道場では本は読んではいけない、と
聞いているので、そういう本をヒントにするのは邪道かな、と思って開いて
いないのですが・・・・・

27 :露堂:04/05/21 10:17 ID:V8Y/Waf2
公案禅と黙照禅の違いはありますが、公案も、いずれ只管打坐に落ち着きます。
つまり、一心に考え抜くことで妄念妄想の起こる余裕を与えず、起きればムーの一字で妄念妄想を破砕するわけです。
そうして正念(この場合は無)を純一化していくのです。
また解答書があるといっても何の役にも立ちません。師家の前でムーとうなってもだめです。
師家の前で、本人が体得した無の端的を証明しなければなりません。
それは各人違います。見性していれば師家はすぐ点検しますから分かるものです。
師家についているならば、あまり本を読まないほうがいいと思います。それは禅から離れることになりますよ。
私の場合は、前は経典もよく読みましたが今はあまりよみません。確証するためには読んでいますが。


28 :名無しさん@3周年:04/05/21 10:58 ID:j3GT/p4E
>>27
そのとうりですね。
あまり本は読まないほうが良いですね。


29 :名無しさん@3周年:04/05/21 11:03 ID:j3GT/p4E
本を読むと知識ばかり入って、
内からでてこないようですね。


30 :露堂:04/05/21 12:01 ID:V8Y/Waf2
知識や理屈が頭を支配しているうちは、禅定に入ることはできません。
一般の方は、世間の情報に右往左往して、それが感情とないまぜて妄念となって出てくるのです。
最近はこの程度がかなり重症で落ち着きのない人が多いようです。これは一種の心病です。
一種の生活習慣病なのですが、多くは気が付きません。
禅は、この生活習慣であり、とめどなく出てくる念の連鎖断ち切ることからはじめる訳です。
これが無字の公案でもあるのです。


31 :名無しさん@3周年:04/05/21 12:29 ID:cKzptSsp
禅は知りませんが、何事も基礎がとても大切ですね。
一般に、知識というのは、外から入ってきた借り物ですからね。

32 :名無しさん@3周年:04/05/22 16:08 ID:qw/Crdgb
>>25
>自己流の間違った解釈を主張し、仏祖伝来の禅を正しく理解しようともしない方は尋牛の名にも値しません。
まことにその通り。間違った解釈を主張し、正しく理解しない方は、妄念に囚われている。

無字の拈提を一生懸命やっていくと、
初めは自分と無字が別々であったものが、次第に軌道に乗ってきて無字の拈提が深くなり、
自分と無字とが一つとなり、この調子でいけば自分も見性(けんしょう)できるに違いないという、
一種の確信に似たものが出てくる。そこでなお一層無字の拈提に力が入ってくる。
こうした段階が 見跡 である。

33 :名無しさん@3周年:04/05/22 16:10 ID:qw/Crdgb
>>27
失礼ながら指摘すると
>師家の前で、本人が体得した無の端的を証明しなければなりません。
>それは各人違います。見性していれば師家はすぐ点検しますから分かるものです。

知識や理屈でもって見性を点検する師家。
知識や理屈でもって見性を証明しようとする行為。
どちらも理論を離れていない。見性は屁理屈の応酬ではない。

それには色即是空の事実を自分自身で確かめる必要がある。
それには只一つ。無字の拈提に全力を捧げ、只自己を忘じて無字ばかりという実践が必要である。
この実践を続けていくと、何かの機会に自分が完全にカラッポでどこにもないという事実と、
カラッポだからすべてが自分であるという事実が手に入るのであります。
この実践と体驗が無い限り、それは観念禅であり思想禅あることを知らねばならない。
色即是空の事実を自分自身で確かめたなら証明や点検は不要である。

34 :名無しさん@3周年:04/05/22 16:20 ID:qw/Crdgb
>知識や理屈が頭を支配しているうちは、禅定に入ることはできません。
>一般の方は、世間の情報に右往左往して、それが感情とないまぜて妄念となって出てくるのです。
>最近はこの程度がかなり重症で落ち着きのない人が多いようです。これは一種の心病です。
「一般人の愚かさに較べて、自分自身が特別な方である」という思いは妄念である。
知識や理屈の支配しない状態、落ち着く状態、それだけでは無字の拈提とは言えない。
「一般人の愚かさに対する等別な自分自身の賢さ」という妄念が消えぬ限り、何も進まぬことを知れ。

35 :凡夫:04/05/22 16:43 ID:7gtxbAU4
公安の様子を観たことがありますが、何故あのような修行があるのか凡夫に
は分かりません。思考に依らない空から発する直言のやり取りに見えるが、
時に苦し紛れの儀式にも見える。公安は言葉の相撲にも感じる。
矢で射るような公安より、水面の光と葦のそよぎに身を任す様な時の無い世
界に私は浸りたい。

36 :凡夫:04/05/22 17:15 ID:7gtxbAU4
公安は公案の誤り、まさに凡夫、素人なり。

37 :名無しさん@3周年:04/05/22 17:48 ID:c2af5yUt
>>33
>>34
禅は知りませんが、これが本当の禅なのでしょうね。

>この実践を続けていくと、何かの機会に自分が完全にカラッポでどこにもないという事実と、
>カラッポだからすべてが自分であるという事実が手に入るのであります。
禅は知りませんが、そのとおりですね。

久々に、身体を張って体得してこられたものを読ませていただきました。
ありがとうございます。


38 :名無しさん@3周年:04/05/22 23:56 ID:9BadsK2X
>>21
ものすごくいっぱい批判してあげるから、なんか言ってよ。

39 :名無しさん@3周年:04/05/23 14:04 ID:5mLWWhY1
>>38
犬に仏性と言っても理解できないから。

40 :400000:04/05/23 17:47 ID:13ORPtBK
>それには色即是空の事実を自分自身で確かめる必要がある。
>それには只一つ。無字の拈提に全力を捧げ、只自己を忘じて無字ばかりという実践が必要である。
>この実践を続けていくと、何かの機会に自分が完全にカラッポでどこにもないという事実と、
>カラッポだからすべてが自分であるという事実が手に入るのであります。

 失礼ながら、大きな勘違いがあるんではないかなと思うのです。
もしあなた様に大きな勘違いがあるとしたら、それはなんですか?
答えてみてください。


41 :名無しさん@3周年:04/05/23 18:34 ID:mXvxb3Ko
>>40
「信心が生み出された時の真相」は何故語られないのか?

あなたは疑問に思わないのか?

疑問に蓋をした侭行動するのは、多くの人を不幸にするかもしれない。

自分1人の問題ならば、それでいいかもしれないけれど。

42 :400000:04/05/23 21:51 ID:13ORPtBK
>疑問に蓋をした侭行動するのは、多くの人を不幸にするかもしれない。
>自分1人の問題ならば、それでいいかもしれないけれど。
失礼ながら、それは建前で、
 本音は「ペラペラしゃべると減る。もったいない」だと思います。
このように、多少不正確さはあっても本音を喋るほうが、悟りには
近いはずです。 そうすると、次には何が減るのか、なぜ減るのか? という
より本質に近い問題を問うことができるのです。人類の不幸を背負うには
まだ準備がいるとおもうのです。
 どうでしょうか?


43 :名無しさん@3周年:04/05/23 21:56 ID:7rCLVblC
いまだかつて、仏性の有無に迷った犬を見たことなし

莫妄想


44 :名無しさん@3周年:04/05/23 21:59 ID:qlyu52bG
>>39
犬でもないのに犬が理解できないと決めつけること自体、禅的ではないな。
それともおぬし、犬か?わんわん。
どっかの解説を鵜呑みにするからそういうことになる。
反省しる!

45 :名無しさん@3周年:04/05/23 23:01 ID:/HcM9E3h
>>42
>疑問に蓋をした侭行動するのは、多くの人を不幸にするかもしれない。
>自分1人の問題ならば、それでいいかもしれないけれど。

国語的な解釈ですが、
「疑問に蓋をした侭行動する」とは、
本当に悟らないままに言動をしていくと、又は、悟っていないのに悟ったように思い込んだ言動をしていくと、又は、悟りに遠いのに近いように思い込んで言動をしていくと、
かえって、多くの人々を迷わせることになるのではないでしょうか ということを言っているのではないでしょうか。

「自分1人の問題ならば、それでいいかもしれないけれど。」とは、
自分ひとりが悟ったと思い込んで、その考えを誰にも言わずに自分だけのものにしておく分には、
他の人を迷わせることがないから、それでいいかもしれないけれど と言っているのではないでしょうか。


46 :名無しさん@3周年:04/05/23 23:18 ID:BDtlhdpV
>>44
犬は3歳児レベルの言語も理解できない。そんなことも解らないの?

47 :名無しさん@3周年:04/05/23 23:20 ID:e7/oF1ai
犬は悟っている


48 :名無しさん@3周年:04/05/23 23:24 ID:e7/oF1ai
犬は悟っている
それは事実だ。
知性と言うものをもちあわせていなくても。
それは悟りが人間が価値を置く知性と何ら関係のないことを示している。
人間の知性とは何だろうか?
それは分離。
または判断とも言う。
善悪をつけること。
善悪を付けるとき、人は悪いことを避けようと
現実をコントロールしようとする。
それが苦しみの元。

49 :名無しさん@3周年:04/05/23 23:37 ID:qlyu52bG
>>46
そーゆーいみならなおさら悪い。
なぜ仏性を言語を通して理解しなければいけないのか?

50 :名無しさん@3周年:04/05/23 23:42 ID:qlyu52bG
>>48
悟りが分別を離れることならその通りだろう。
でもそしたらアフォほど覚者に近いってこったな。
お悟りの意味を練り直していらっしゃい。

51 :名無しさん@3周年:04/05/24 00:01 ID:ZlszaDmJ
>>49
おまえに言っても解らん焉。

52 :名無しさん@3周年:04/05/24 00:03 ID:k40JQEBJ
>>51
わかってやるから言ってみそ。

53 :名無しさん@3周年:04/05/24 00:04 ID:wTR+P1BB
そう。アフォほど真実に近い。
頭の良いものは未来を見る(実際は幻想。未来は頭では認知できない)
ために現実でないものを作りだし、幻想に溺れる。
決して真実を見ることは無い。
むしろ見ることを恐れるだろう。w

シャンカラの弟子に頭の悪い者が居た。
でも彼は誰れにも負けないハートを持っていたので
一番最初に悟りを得た。

54 :名無しさん@3周年:04/05/24 00:12 ID:ZlszaDmJ
>>52
キチガイを尊敬できるか?

55 :名無しさん@3周年:04/05/24 00:38 ID:k40JQEBJ
>>54
尊敬せんでいいからなんか言って実

56 :名無しさん@3周年:04/05/24 00:38 ID:k40JQEBJ
>>53
シャンカラ引用すな(w

57 :名無しさん@3周年:04/05/24 01:16 ID:ofEEXO3w
>>40
気に召されるな。
話の状況によってそのように書き込んだまでです。
あなた様は無知による執着、我のことを指摘されているのでしょう。

58 :名無しさん@3周年:04/05/24 01:44 ID:ofEEXO3w
>>48
犬だけではござらん。
すべてでござる。
タイゴされもうしたか
タイゴの法を知っておられるか
世は広いのー

59 :名無しさん@3周年:04/05/24 01:49 ID:AhbArqPv
犬はどこでも交尾するからな。
ある意味悟ってると思う。俺も。

60 :名無しさん@3周年:04/05/24 03:09 ID:/d1My5bv
全ての宗教はつまるところ二つの価値観に集約される。
ハートを基準にした全肯定の道と、絶対無を基準にした全否定の道である。
キリスト教・スーフィズム・クンダリーニヨーガは前者であり、仏教・禅・道(タオ)は後者である。
そしてもう一つの境地に、ソクラテスの産婆術・グルジェフの純粋意識・仏陀のヴィパッサナーがある。
実はサマーディーにはいくつかのステージがあり、純粋意識・ハート・絶対無となる。
私が見るところ見性の境地はは純粋意識の段階ではないかと思う。


61 :ミロク@兜率天:04/05/24 04:04 ID:222aXbfe
お前らステージだの段階だの考えなくてもいいよ。だってお前らすでにゴールしてんだからさ(藁

62 :露堂:04/05/24 08:56 ID:IPNIdQcd
>>33
>知識や理屈でもって見性を点検する師家。
>知識や理屈でもって見性を証明しようとする行為。
>どちらも理論を離れていない。見性は屁理屈の応酬ではない。

相当、勘違いされているようですな。
参禅されている方ならば容易に察しがつきますが、このような師家がいるはずもないのです。

>>34
>「一般人の愚かさに対する等別な自分自身の賢さ」という妄念が消えぬ限り、何も進まぬことを知れ。

もし、そのように採られたならば、私の言葉の至らなさです。
そのようなことは思ってもおりませんし、気が付かないところで、まだ我執に囚われていたのかもしれません。
ここでは無字公案の意味を一端を述べたつもりです。


63 :名無しさん@3周年:04/05/24 10:34 ID:acxhd7J5
犬は神だ
DOG→GOD

64 :露堂:04/05/24 10:40 ID:IPNIdQcd
>>33
>それには只一つ。無字の拈提に全力を捧げ、只自己を忘じて無字ばかりという実践が必要である。
>この実践を続けていくと、何かの機会に自分が完全にカラッポでどこにもないという事実と、
>カラッポだからすべてが自分であるという事実が手に入るのであります。

恐らく自他一如の平等観を言ってらっしゃるようですが、失礼ながらこれは片一方の見方で十分とは思えません。
これはこれで必要で尊いことなのですが、本当の見性は法に証せられるところが必要なのです。
平等観の中から因縁による差別が証せられないと見性とは言えないと思います。
弘法大師が明けの明星をみて口に飛び込んできて悟った、あるいは香厳和尚が竹に石が当たって悟ったなどはまさに法に証せられた端的です。
私の禅友は鐘の音が体を通り抜けていったなど、見性した方は大なり小なりこのような法に証せられた体験を持っているはずです。
そこを無門関では、驀然として打発すれば、天を驚かし地を動じて、・・・・と語っているのではないでしょうか。
また道元禅師は、・・・万法進みて自己を修証するを悟りという、と語っているのだと思います。


65 :南予出身:04/05/24 11:16 ID:4N44jADo
これまでは数息観で座っていましたが、このところ無字の公案を考えながら
座ってます。突破できそうで突破できない感覚があります。あっという間に
時間が過ぎますね。ああ、早く突破したいものです。

66 :露堂:04/05/24 11:35 ID:IPNIdQcd
>>65
まあ、マターリしかも真剣にやってください。

>あっという間に時間が過ぎますね。
雑念妄念がなく公案に専念しているよい証拠です。しかし

>ああ、早く突破したいものです。
これを自己をたてるというもので、これを持ってはいけません。専一に無に参じていればよいのです。
因縁が熟すまで何年もかかる方もいますからね。
長足の進歩のためには摂心にも参加したほうがよいでしょうね。



67 :南予出身:04/05/24 16:01 ID:SGacJdLb
露堂さんへ。助言ありがとうございます。あせらずじっくり取り組んでみます。

68 :名無しさん@3周年:04/05/24 21:15 ID:r+11Skgl
このスレはGL2に違反してないのか?


69 :名無しさん@3周年:04/05/24 21:50 ID:IQ/y+bAy
>>68
背に腹は代えられぬ

70 :名無しさん@3周年:04/05/24 22:39 ID:atLiW6KX
>>64

>この実践を続けていくと、何かの機会に自分が完全にカラッポでどこにもないという事実と、
>カラッポだからすべてが自分であるという事実が手に入るのであります。

>>33ではありませんが、一般的な話として、
上記の体験があると、それと同時に、あなたが言っておられる、下記のような体験もするのではないでしょうか。
ですが、法に証せられるといわれる下記のような体験は、あまり言わないのではないでしょうか。
その理由は、その現象は個人的によって異なり、誤解して受け取られることがよくあるからです。
このような初期の法に証せられたことを確認できるのは、「自らの中に仏性を見出す」ようになるからではないでしょうか。
禅は知りませんが、このようなことは共通しているように思われます。

>弘法大師が明けの明星をみて口に飛び込んできて悟った、あるいは香厳和尚が竹に石が当たって悟ったなどはまさに法に証せられた端的です。
>私の禅友は鐘の音が体を通り抜けていったなど、見性した方は大なり小なりこのような法に証せられた体験を持っているはずです。
>そこを無門関では、驀然として打発すれば、天を驚かし地を動じて、・・・・と語っているのではないでしょうか。
>また道元禅師は、・・・万法進みて自己を修証するを悟りという、と語っているのだと思います。



71 :名無しさん@3周年:04/05/25 02:01 ID:S6GK4Koe
>>70>>64
>弘法大師が明けの明星をみて口に飛び込んできて悟った、
>あるいは香厳和尚が竹に石が当たって悟った

>自分が完全にカラッポでどこにもないという事実
をどうすれば切り離すことができるのか?
同じ現象を表現方法を変えているだけにすぎないのに。

72 :雲水とうきち(>>60):04/05/25 05:20 ID:FM/SnCyo
真言宗と禅宗は根本的に違う。
真言密教はクンダリーニヨーガやチベット密教と同じ系統だ。
禅とは正反対の方法論なのだ。

それと見性と大悟はまったく違う境地である。
それは臨済宗と曹洞宗の用語の違いなのではない。
アドヴァイタの用語を用いれば見性はアートマン、大悟はニルヴァーナだ。

73 :雲水とうきち:04/05/25 06:16 ID:FM/SnCyo
禅定は自己ヒーリングだと思います。
ただし一般的なヒーリングがハートに力点を置いているのに対し
禅定ではハラに力点を置いています。
例えば怒りが起こった時は深呼吸して三つ数えなさいといったようなことです。
どの角度から見るかの違いなのですが
真の自己ヒーリングにはどちらの要素も必要なのです。
というよりも一般的なヒーリングの概念にはもう一つの重要な要素が抜けているのが現実です。
すなわちそれは『覚』です。覚めている状態、意識が意識自身に気づいている状態のことです。
覚・ハート・ハラ。

74 :400000:04/05/25 09:35 ID:UwYL7WC+
>「自分1人の問題ならば、それでいいかもしれないけれど。」とは、
>自分ひとりが悟ったと思い込んで、その考えを誰にも言わずに自分だけ
>のものにしておく分には、他の人を迷わせることがないから、
>それでいいかもしれないけれどと言っているのではないでしょうか。

丁寧に読まれるのですね。
しかし悟りというのは私が悟るのではないのです。悟りが私を見ているのです。
ですから悟りには迷いはありません。
悟りのように見えるのは悟りではなく、迷いです。
 あなたが悟ったとするとそれは悟りではなく迷いです。迷いだから他人を
迷わすのです。


75 :名無しさん@3周年:04/05/25 10:00 ID:aYJN+5sj
釈迦が梵天に勧請されるまでは沈黙しようとしたのは、迷いではなければ、
何なんだろうか?偉大なる御配慮とでも申すべきか…

76 :名無しさん@3周年:04/05/25 10:26 ID:CcHX0zpv
>>71
「同時」が「切り離し」になるならば、言葉の壁の限界ですね。
言葉の壁の限界は、人を選びませんよ。


77 :名無しさん@3周年:04/05/25 12:05 ID:O0etj1Vc
山田無文という老師がおられました。
彼は坐ることが好きで、出世にも関心がなく、よく坐っていたそうです。
彼は見性の無い坐禅は無意味である、また、ただ坐るだけでは意味がない とも言っておられました。
公案もよろしいですが、もっと坐ればどうでしょうか。
彼の法話は聴衆を引き付けるものがありました。禅僧特有の荒々しさや、天魔ぶりは見られませんでした。


78 :露堂:04/05/25 13:15 ID:W8iSw8eW
>>77
そうですね。
もっともっと坐るべきでしょうね。
(坐)禅ではなく坐(禅)になる位に坐らないと、心に染み付いた深い囚われは
取れそうもありませんね。


79 :名無しさん@3周年:04/05/25 14:23 ID:UwYL7WC+
>山田無文という老師がおられました
 亡くなられたのですか?
無文さんに匹敵する、今の人はいませんか?
 誰もいないはずです。
 現存する凄い人はいつの時代もいませんが、歴史上では
何時の時代も凄い人がいます。
 無文さんはしりませんが、この世界はだいたい死んでから
値打ちがでますね。みんな死ぬのを待っていて、ここぞと
ばかりにもちあげます。死人にくちなし言いたい放題。
宣伝して担ぎ上げて、利用し放題。禿げ鷹です。


80 :名無しさん@3周年:04/05/25 15:01 ID:IEWR1Srx
>>79
山田無文さんは、生きておられたときから知られていましたよ。
妙心寺派第26代官長や、花園大学学長でもあった方です。
山田無文老師は出世欲のない方ですから、この方を存命中に官長や学長に推挙された周りの方々も、よく修行をされた方々だったのではないでしょうか。


81 :名無しさん@3周年 :04/05/25 18:00 ID:8dxRdvQw
>釈迦が梵天に勧請されるまでは沈黙しようとしたのは、
>迷いではなければ、何なんだろうか?

それだそれ!!その詳細希望!!!!詳しい人!

82 :雲水とうきち:04/05/25 18:45 ID:ATAbz/YA
>>81
OK!私が答えよう。
まず最初に梵天とはブラフマンからきた言葉ですよね。
アートマン(真の自己もしくはハイヤーセルフ)がブラフマン(神性)に溶け込むわけですよ。
悟りにはステージがあります。自己を得る→神性への溶け込み(個から全体へ)→創造の源泉。
ゴータマが至った境地はさらにその先、心身脱落、絶対、涅槃、不在、ニルヴァーナなわけです。
完成とは死を意味する。この段階に至った人は存命か意識的な入滅を選べるわけですね。




83 :名無しさん@3周年:04/05/25 18:50 ID:SYL01zRA
山田無文老師の言葉
ttp://www.zazen.or.jp/mumontop.htm

おもしろい人ですね。

84 :名無しさん@3周年:04/05/25 18:52 ID:GjNU/JEt
ひどいオナニースレだな。


85 :名無しさん@3周年:04/05/25 23:38 ID:g52uW+rS
>この段階に至った人は存命か意識的な入滅を選べるわけですね。

有名な禅僧の「死にとうない」と比較した場合、明らかにステージ的に雲泥の差があるということか。



86 :名無しさん@3周年:04/05/25 23:56 ID:GMwyzn7L
ステージってオウムの連中がよく使うな。悟りにも偏差値導入ですか。
ご立派なことで。

87 :名無しさん@3周年:04/05/26 00:02 ID:MNSCYkdB
>>81
>釈迦が梵天に勧請されるまでは沈黙しようとしたのは、迷いではなければ、
>何なんだろうか?偉大なる御配慮とでも申すべきか…

この御仁が何を言いたいのか、国語的にみますと、
まず、梵天が心から釈迦に願って説法を請うまでは、釈迦は沈黙していたということです。
釈迦の沈黙は迷いであるのか? 実は迷いではないのです。
迷いとは「無明」のことです。悟っておられる釈迦は無明状態ではありませんでした。

では、なぜ黙っておられたのか?
釈迦の説法を心から聞きたいと願う者が現れることと
釈迦の説法を受け止めることができる者が現れることを待っておられた沈黙の期間と考えることができるようです。

ですから、この御仁は、最後に、(釈迦の)偉大なる配慮とでも申すべきか… という言葉をつけくわえておられるのではないでしょうか。
心理的な考察は控えておきます。


88 :名無しさん@3周年:04/05/26 00:10 ID:MNSCYkdB
>>86
本当、ステージって禅にはないね。


89 :名無しさん@3周年:04/05/26 00:29 ID:d0p26L9K
>>83

このおじいさん悟りを開いてるんですか?

90 :名無しさん@3周年:04/05/26 01:28 ID:+/cKeMxq
>>83
山田無文さんの話しっておもしろいでしょう。

彼の話しって坐禅や見性の参考になることがありそうですよ。
この人の話を聞くと、坐禅をしたくなったそうですよ。

また、禅文化研究所の初代所長になられました。禅をしている者どうしで、反目しあうのも愚かなことです。
「禅文化」についても語ってはどうでしょうかね。
念のために言っておきますが、禅文化研究所の関係者ではありませんよ。


91 :名無しさん@3周年:04/05/26 06:11 ID:HxPWqxhp
 当たり前のことを当たり前に喋って尚且つ人の心を打つものがある。
当たり前のことを当たり前に喋って、2回目、3回目となるとさらに
味が出てくる。基礎とはこういうもので、木偶仏を支える土台など
ではなく常に真新しいピカピカ、ツルツルのステージ。下手はそういう
基礎には立てない。面白くしてやれと思うから、その当たり前のことが
ほったらかしになる。まれにそういうツルツルの人物にであうと勉強になる。
あまり近づきになると小言をもらうから、出会うだけでいい。


92 :名無しさん@3周年:04/05/26 06:14 ID:PUT+uQmz
例えば洋食のマナーとしての、フォークとナイフの使い方の違い。正⇔外
があっても、生きることにマニュアルはない。


93 :雲水とうきち:04/05/26 06:31 ID:wgUPAcfN
禅を信じているということは少なからず
人間が物質的存在以上の存在であることを信じているのであります。
禅に固執する人はどうも、哲学的といいますか道徳的といいますか
ある種の観念に執着しているようにみうけられます。
しかしはたして禅とは知的に理解できうるものなのでしょうか?

禅の行法は「覚」と「空」の融合であり
クンリニーヨーガの行法は「覚」と「ハート」の融合なのです。
どちらも片手落ちなのであります。

大切なのはプロセスとテクニックなのです。

94 :雲水とうきち:04/05/26 06:55 ID:wgUPAcfN
禅原理主義者はエゴを目のかたきにしますが
悟りたいという願望はエゴそのものではないですか?
名誉を得たい、金持ちになりたい、・・・
覚者になりたいだなんてそれらを遥かに凌ぐ野心ではありませんか!?
そこで矛盾に突き当たるわけです。

ヨーガのプロセスはまったく逆です。エゴを追求した結果、それでは究極に至れないことを知るのです。

95 :名無しさん@3周年:04/05/26 08:26 ID:V1vFwY3R
お前ら禅とかいってるけど、実際やってないだろ。
本物にはわかる。まぁ話題切らせないのも一苦労だろうがな。
ご苦労さん。自作自演

96 :名無しさん@3周年:04/05/26 08:48 ID:HxPWqxhp
>があっても、生きることにマニュアルはない

だから、作ってみるのです。

>本物にはわかる。まぁ話題切らせないのも一苦労だろうがな。

本物の一つが本物で、偽者の一つがにせもので、
偽者の一つは本物を語る偽者で、本物の一つは本物と気付かない本物


97 :名無しさん@3周年:04/05/26 09:05 ID:HxPWqxhp
>ヨーガのプロセスはまったく逆です。エゴを追求した結果、
>それでは究極に至れないことを知るのです。
意味不明。意味不明ということは、意味があると思うから
意味不明なのであって、そう思わなければ、自明である。


98 :名無しさん@3周年:04/05/26 09:06 ID:ljOozUHs
>>94
ところで、あなたは何をしているのですか。

>>95
IDになったから、自作自演は難しいでしょう。
坐ることぐらいしているでしょう。


99 :名無しさん@3周年:04/05/26 09:16 ID:HxPWqxhp
>禅の行法は「覚」と「空」の融合であり
>クンリニーヨーガの行法は「覚」と「ハート」の融合なのです。

同じスピードなのに重いボールと軽いボールがある。
同じ言葉を言っても軽く聴こえる人がいる。


100 :名無しさん@3周年:04/05/26 09:33 ID:HxPWqxhp
>坐ることぐらいしているでしょう。
 走る習慣を付けるのは簡単でしたが、座る習慣がつきません。
結跏趺坐も、ろうそくも、ノウボウアキャシャも、らべりんぐも
ちょっとだけやってみましたが、何かの拍子につい忘れてしまいます。
このような人間の本質的習性を捉えて、習慣化するコツについて、誰か説明
してみてください。


101 :名無しさん@3周年:04/05/26 09:48 ID:HxPWqxhp
>大切なのはプロセスとテクニックなのです。
たいていの人にとって大切なものは、今大切と思うものを、
さらにもう1歩、2歩進めて大切なものを発見したときであって、
そうで無い場合は、それは一時的なものであって
何かの拍子につい忘れてしまう。


102 :名無しさん@3周年:04/05/26 09:58 ID:ahYrDAS6
>>100
人間として生まれてからあまり歳月が経っていないと、自分についてわからないことが多くあります。

あなたは、まじめで努力家のようですね。難を言えば気が多いともいえますが、希望がいっぱいあるともいえます。

自分の理想像をつくって、その人間になろうとすると、多くの無理が生まれてくるようです。
当たり前のことすが、人間の一日は24時間、気力と体力と注意力にも限界があります。
自分にとって大切なことだけ絞り込んで、無理なく続けることができる計画表のようなものをつくってもよいかもしれませんね。
そのうち、自分を知るようになってくるのではないでしょうか。


103 :100:04/05/26 10:58 ID:HxPWqxhp
 あなたの言われる「計画すること」と「自分を知ること」は私の大きなテーマです。
 計画表はなんども作りました。
仮に1時間の計画を作っても、大抵うまくゆきません。
人生を計画する者は人生に成功します。しかし、私は多くを望みません。
このほんの1時間の計画を成功させたいだけです。このノートを成功させたい。
この整理を成功させたい。この食事を成功させたい。この歩きを成功させたい。
この考えを成功させたい。
 ところが、これらのことごとくを
失敗します。成功はわずかです。人生を振り返るとおそらく失敗の連続でしょう。
 私は私の行動にもっと意識的でなければなりません。失敗とはここに存在しないことを
意味します。ここに存在感をもって存在することによって私は成功します。
座る習慣とはそのことを意味しているのです。



104 :名無しさん@3周年:04/05/26 11:59 ID:HCE5jsy4
>>103
一般に、
100人のうちで97〜98人ぐらいの人は、自分の目的を達成するのに失敗するといわれています。
うまくいく人は2〜3人といわれています。

目的を成功させたい、成功させたいと願うほど失敗するといわれています。それは、心には作用・反作用の法則が働いているからではないでしょうか。

心の作用として成功させたいと願うと、心の反作用として成功できないのではないかという感情が生まれ、この感情が考えよりも優先してしまいます。
だから失敗してしまうわけです。つまり、反作用の為すべきことばかりを考え、実践して、作用である目的を自然に訪れるようにさせればよいわけです。

見性や悟りにおいても、
心の作用として見性や悟りを求めれば求めるほど、見性や悟りは逃げていくようです。
その反対に、見性や悟りを求めず、日々の為すべきことを為していれば、悟りや見性は自然に訪れるようになるのではないでしょうか。


105 :名無しさん@3周年:04/05/26 12:01 ID:h/FPnXv8
50回以上、諦めずにやれば済むことだろ

106 :露堂:04/05/26 12:19 ID:OYVf3IRU
我々凡夫は、なかなか成り切るということが出来ません。
歩くにしても、食事にしても、いつも何か思案したり妄想を膨らませたりして心は別の所にあって、なかなかそのものに成り切れないのが我々凡夫です。
なにか見ていても、底には観念が働いていて、自分勝手に作り上げているのです。カラスの鳴いている姿をみては、ああカァカァとないているなぁと思います。
しかし真実は”カァカァ”とは鳴いていないのです。こういうことですから本来あるべき本質を正しく見ることができないでいるのです。すなわち無明です。
これは生まれてから経験を重ねてこういう癖を付けたからなのですから、自らこの悪い癖を取り除く他ありません。
本来あるべき姿を正しく見ることができるよう、失敗しないようにする為には、今、その瞬間、瞬間を余念を交えずにしっかりと真実を把握するしか方法がありません。
即今、即所に参ずるというのはこのことです。
禅はこの心の癖を取り除く修行でもあります。
こういう生来の悪癖を粉砕撃破する努力を積み重ねて、我々凡夫は悟りへと近づくのです。


107 :雲水とうきち:04/05/26 14:55 ID:wgUPAcfN
禅定ってハートに留まることじゃん!

108 :100:04/05/26 15:08 ID:HxPWqxhp
>心の作用として見性や悟りを求めれば求めるほど、見性や悟りは逃げていくようです。
>その反対に、見性や悟りを求めず、日々の為すべきことを為していれば、悟りや見性は
>自然に訪れるようになるのではないでしょうか。
このことは仕事において最も顕著に現れます。あなたがもし私の上司なら、
「急げ」とは決して言わないでください。急げというと遅くなります。
三日でできる仕事が一ヶ月も掛かります。私のように元々まじめな人間に関しては
遊ばせておいてください。
それが最も効果的に仕事がはかどるコツです。


109 :100:04/05/26 15:10 ID:HxPWqxhp
>50回以上、諦めずにやれば済むことだろ
 乱雑なメモをノートに書き写して整理したうえで、さらにもう一度整理して書き直す。
そして最後に丁寧に清書する。こうするとノートは単なるノートではなく鑑賞に堪えうる
芸術的ノートが出来上がります。
 ノートの機能という面から見ると非生産的で無駄な作業のようですが、
それがある種の芸術になるとき、無常の喜びを味わうわけです。

>即今、即所に参ずるというのはこのことです。
 もし一発で書いて、武蔵の水墨画のように美しいノートが出来上がるとすれば、
即今、即所が完成しているといえます。
即今即所にいたるまでには50回のあるいは1000回の練習があるのかもしれません。

 思うに多くの著名人のノートを見るにつけ、必ずしも丁寧ではないにもかかわらず、
どこか趣きがあり、引かれるものがあります。しかしこの引かれるものは、
練習からくるといっていいものか自信がありません。


110 :露堂:04/05/26 15:42 ID:OYVf3IRU
>>109
>思うに多くの著名人のノートを見るにつけ、必ずしも丁寧ではないにもかかわらず、
>どこか趣きがあり、引かれるものがあります。しかしこの引かれるものは、
>練習からくるといっていいものか自信がありません。

貴方にはこういう体験がありませんか。
なにかある事を、旨くやってやろうとか失敗したらどうしようとかの、一切の邪念や捉われから離れて無我無心にしているとき、
やるものと自分との隔たりがなくなってしまった様な感覚です。
そのときには自分でも信じられないくらいの結果が生じるものです。
ものによっては相当の練習も積まなければならないでしょう。しかし、一切の捉われからはなれて無心でやること。
すべて芸事のコツはここにあるのじゃないでしょうか。


111 :100:04/05/26 16:50 ID:HxPWqxhp
>やるものと自分との隔たりがなくなってしまった様な感覚です。
>そのときには自分でも信じられないくらいの結果が生じるものです。

 たとえば毎日5時間ピアノを練習します。5年間続けて、一通り弾ける
技術が身についたとします。ところが、何かが足りない。
講演会の日がやってきて舞台に立ったとたんに、その足りなかったものに開眼した。
 座禅をしても、ピアノの技術は上達しません。
しかし何かしら足りない最後の一歩を助けることはできるかもしれません。

 恐ろしいことに「見性」とはこの最後の一歩だけがあって、それまでの5年の努力
の欠けたメチャメチャの状態では無いだろうか?という疑問がわいてきました。


112 :露堂:04/05/26 16:56 ID:OYVf3IRU
>恐ろしいことに「見性」とはこの最後の一歩だけがあって、それまでの5年の努力
>の欠けたメチャメチャの状態では無いだろうか?という疑問がわいてきました。

練習しなかったら見性してもピアノは弾けないのじゃありませんか?

113 :名無しさん@3周年:04/05/26 17:00 ID:h/FPnXv8
ごもっとも。諦めずに続ける。貫通しても夢のように忘れる。

114 :100:04/05/26 17:42 ID:HxPWqxhp
>ごもっとも。諦めずに続ける。貫通しても夢のように忘れる。

 私の人生はピアノです。(バレエでもかまいません)
毎日5時間練習して、5分座禅をします。5年間練習してピアノに
開眼(見性)しました。では見性は座禅の属性でしょうか、それとも
ピアノの属性でしょうか?
 最後の一歩で悩んでいるときに、老師がでてきて、ポンと頭をたたいて開眼
したとします。これは老師の手柄でしょうか?
 私の頭の中では見性のイメージだけが一人歩きをしていますが、見性は
ピアノ無しには存在できないのではないでしょうか。


115 :100:04/05/26 22:41 ID:HxPWqxhp
見性は座禅の中にあると思っていたら実は日々の労働の中にある。
道理で座禅の中をいくら探して出てこないはずだ。
 
 座禅について老師は
「坐禅して、静かに心を澄ますことによって、
本来無一物、何もないところに真実の自己を発見する」
「そこで、静かに考え、心を澄ますには、どうしたら一番よいかというと、
坐って何も考えんことが一番よいのである。」

 我々はいつ真実の自己を失っただろう。徐々に徐々にいまも失い続けている
のだろうか?


116 :名無しさん@3周年:04/05/26 23:52 ID:3HuMYfQu
対象の問題ではなく、自己の問題ではないでしょうか。




117 :名無しさん@3周年:04/05/27 00:24 ID:8DRr3kvC
執着を薄めるようにされたらどうでしょうか。

118 :名無しさん@3周年:04/05/27 00:45 ID:UZgWzPca
妄想を除かず真を求めず

119 :魔法のマント:04/05/27 04:41 ID:JS4Wss9t
練習量がすべてではない。なるほどねえ。

120 :魔法のマント:04/05/27 04:56 ID:71d5lKhz
誰かの後なんてたどらないで〜♪え〜え〜え〜

121 :名無しさん@3周年:04/05/27 09:30 ID:vZjbTUVS
坐る時間が一日5分では、あまりにも少ないのではないでしょうか。


122 :100:04/05/27 10:51 ID:kgJ146kM
>坐る時間が一日5分では、あまりにも少ないのではないでしょうか。

 それ以上では多すぎます。ビールは最初の一杯が美味しいのであって、
残りの10本は惰性です。小便になるだけ。
惰性で座ってはいけません。まず5分から。
5分は短いでしょうか? 短く無いのです。
 息をとめて、時計の針を見ながら5分がながいか短いか測ってみてください。


123 :100:04/05/27 10:56 ID:kgJ146kM
>対象の問題ではなく、自己の問題ではないでしょうか。

あなたが生活すると生活の埃が溜まります。頭の中は埃だらけです。
座禅も生活するのです。ですから埃が溜まります。
 まして気の遠くなるほど歴史は長いのです。
あなたに10cmの埃がたまっているとすると、座禅には1mの埃が
溜まっているかもしれません。
埃だらけの座禅で、あなたに積もった埃を払えるものでしょうか?


124 :100:04/05/27 11:02 ID:kgJ146kM
>誰かの後なんてたどらないで〜♪え〜え〜え〜
思考とは、
マント、頓馬、真っ赤、河童、パンツ、、、
 連想だろうか?
 なぜ次にくるのは頓馬なのだろう? 誰かの後は?トトトト、


125 :名無しさん@3周年:04/05/27 11:11 ID:vvq30maP
人に頼らず、自分で解決したら。それで解決です。


126 :100:04/05/27 16:22 ID:kgJ146kM
>練習しなかったら見性してもピアノは弾けないのじゃありませんか?

 多分多くの人が厳密にはこの事実に気がついていないのではないでしょうか?
座禅は万能であるとの思い違い。しかしそれも厳密ではありません。

 神の啓示を受けたものは、驚くべき挙動に出るわけですが、それは実現されます。
ところが本当にあなたがやろうとしたことは、啓示の形を取らなくても、
じつは全て神の啓示であって、それは実現する(される)のです。
あなたはそのとき真実の自己に目覚めています。行為は本来不純を含まないので、
それは正しく完結するわけです。「真実の自己」と「行為」とは一体であり、それは
まさに啓示のようなものです。
 ですから、そのときピアノは弾けるのです。


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